2010年12月31日金曜日

節季のしまい雪

 夕べ寝る前に見ていたBSデジタルTVが急に映らなくなった。厚い雪雲の予感がして窓を開けてみると雪が降っている。暗いけれど庭のそこかしこには白い積雪がまだらになっているのが見える。明日の朝はどうなっているだろう。久しぶりの雪景色を期待しながら寝る。
 
 いつもは布団の中でぐずぐずしているが、今朝は6時すぎにガバと起き上がりカーテンを引くと、期待通りの雪景色、さっそく服を着換える。まだ暗いので外へ出るのは少し辛抱する。ニュースを見ると長崎では10センチの雪、12月としては世紀の大雪とのこと。徳島でも今日は雪の予報、最高気温も、ここ吉野川市ではなんと3度、寒い一日になりそう。
 明るくなったので早速、犬っころのように「キャンキャン」とは言わないけれど、雪で嬉しくなり体も軽くなったような気がして、早朝の雪の街を駆け回る?いや、もとい!歩き回る。
  
 「あーあ、この一年もさしていいことなかったなあ」
 「一年、振り返るとちょっぴりいいこともあったけど、いやなことも多くあったなあ」
 「いやなこと、恥になること、忘れてしまいたいこと、汚いこと、みんなみんな、一年の終わりのこの日のまっ白い雪が何もかも隠してくれる。みろみろ、朝日に輝く積雪の美しいこと、影になった積雪の薄青い雪の清らかなこと。」
 「すべてを美しく覆う雪が、洗い流すように、消し去るようにお願いします」
 
 一年の最期の日にこの美しい雪景色を送ってくれた天に感謝します。
 下は携帯で撮った写真です。

道路も凍っている
























駅前もご覧のとおり













近くの公園の雪景色
百円マックを食べながら雪見  
                 公園の山茶花、同系の雪椿とはこんなイメージか  
夜、新町川ルミナリエを見に行きましたが、大みそかの夜で誰もいませんでした。
                                        

2010年12月30日木曜日

年の暮れ列車風俗化粧(けわい)考

 今年あと一日となった街は気ぜわしく買い物をする人、その車であふれかえっている。正月と言っても特になんの準備もしない私はそんなことに煩わされることもない。師走の風に吹かれたくて家を出たが、風流にかぜに吹かれるにしては、今日はちと、寒い。悪天を見越し持ってきた傘を杖のようにコツコツ突きながら歩くが、あまりにも風が冷たい。家を出たときはどちらにしようか迷っていた徳島行だが暖房の利いた列車にとりあえず乗りたくなり、駅へ行く。
 徳島へ行く10時過ぎの列車はいつもより混雑している。高校も休みになっているためか、若い男女が多い。学校も冬休みでみんな私服、やまさんの高校時代は休みでも制服でした。昔でも堅苦しくて嫌でしたけど、こじゃんとした私服なんかほとんどの生徒はもってませんでしたわ。
 最近の若い人のおしゃれのセンスは素晴らしいものがある。列車に乗っている中高生の坊ちゃんや嬢ちゃんの、髪型、髪の色や服装、ブーツやらカラフルなスニーカー、手にするバッグ、袋物、小物の数々にいたるまで、みんな個性的かつ工夫も様々で、列車の中はさながらファッションショーのようなもの。おまけに通路を通るとなにやらいい匂いまでする。あれはいったいなんの匂いだろう。女の子よりむしろ若い男の子の方が良い香りがする。香水か?鬢付け油か?麝香系の香りのような気がするが。
 それにしてもハイティーンの男の子のおしゃれな服装と女の子のような肌、そして髪の手入れの見事さには驚きます。でも、私は男伊達には大賛成。年配者の中に何かと文句を言う人もいますが、はっきりいって間違ってます。50年も前、ピーコック革命と称し(孔雀はオスが美しいところからきている)男も着飾るべきだと主張されましたが、なかなか一般化されませんでした。男が着飾るのはおかしいという偏見がまかり通っていたからです。ようやく最近の男の子はそのくびきから自由になったのは喜ばしいことです。わたしはもっと過激なファッションでもいいと思います
 
 その過激なと思えるファッションの男の子、現にわたしの坐っている近くで、二人立ってます。私から見れば童顔のかわいい子に見えますが、本人は何やらむつかしそうな顔つきをして、どうみてもあるふりをしようとがんばっています。こんなのがいわゆる「つっぱってる」ていうことなのかな。
 ジーンズの一種だと思うんだけれど、ベルトとともに膝に近い辺りまでズボンをずり下げていて、そのため後ろを見ると海老茶に小紋の入ったかわいいパンツが丸見え。もう一人も縹色の粋なパンツがはっきり見えます。若い男の子はズボンをずり下げて穿く傾向にあるけれど、これは極端な穿き方です。
 「やりなさい、やりなさい、」
 こころから拍手です。着飾ることは生きる喜び。日本人は昔から男でも過激に着飾ってきました。中世は、異形・異類の人、風流人と言われ、近世では傾く(かぶく)者と言われました。世界史でも男が着飾るのは当たり前、その中で男伊達をうんだ江戸は最先端。世界の伝統演劇の中で歌舞伎のあの目も彩な衣装を見ても、いかにわれら日本人の若い男は飾りたがったか、わかるでしょう。
 中世歌謡にある
「くすむ人には見られぬ、夢の世を くすんで何しょうぞ 一期は夢よ ただ狂え」
 です。
 こんなズボンをずり下げてパンツ丸見えのファッション、胴も信じられないほど細く引き締まり、小さくてキュートなお尻をもつ16,7歳の男の子でなければできないでしょう。(そら、おっさんがしてもええけど、私には美的には見えん) まさに今のみ、夕べとともにしぼむ美しい花なら、今を大切に、着飾らにゃ、狂え、狂え、楽しめ、楽しめ!

 こちらのボックス席ではアイシャドーかマスカラか知りませんが若い女の子が手鏡を見ながら盛んに化粧。この行為も何かと物議を醸しましたが、こちらも皆さん微笑ましいではありませんか。列車の中で若い子が一心にお化粧をしているのをみると私は歌舞伎の舞踊劇「娘道成寺」のセリフを思い出します。
「恋の手習いふと見習いて、誰に見しょうとて紅、鉄漿(かね)付きょうぞ、みんな主への心中立て」
 恋し愛しい男をいちずに思い、見習ったばかりの紅、白粉をつけるのもみんなあなたのためだけ。なんとけなげで美しい恋心、見上げたものです。
 年配の人はこのような行為をはしたないと見る傾向があります。しかし、恋の一途さがなせるわざとおもえば別の見方ができます。八百屋お七は愛しい男に会うためわずか15歳の歳ながら放火の大罪を犯します。いまだに上演され続けているのは、いちずな女心に皆が感動するため。
 そうおもえば列車の化粧なんて可愛いものです。
「やりなさい、やりなさい」
「ただ、マニキュアの除光液だけはかんべんしてね。卒倒する人がでてくるから」

 

2010年12月29日水曜日

もういくつ寝るとお正月、お正月には・・・して遊びましょ。

 最近、テレビ番組ってホントに面白くないと思いませんか。
 今年は今日ぐらいから気温が下がり、お正月にかけて寒波が来る予報です。こんな寒い年末年始、金も車も犬も猫もやさしい愛人もなにも持ってない私のような貧乏垂れは、ホットカーペットでごろりと横になり、年末年始の特別番組でも見る以外楽しみはありません。人ごみは大嫌い。ふところは外気以上に寒いやまさんですから、わざわざ出ていきたいとも思いません。それで、この時期、テレビとは毎年、うんと親密になります。
 ところが今日ぐらいから始まる特別番組の、面白くないこと。もうコメントにも値しないようなひどい番組をだらだら流し続けるだけ、ネットで番組を検索しても今日なんか見たい番組は、アナログ、BSを通じてゼロ、ひどいもんですわ。
 しかたないから、ニュース報道系の番組をみてますが、一年を振り返って、あーだこーだと特集してます。ろくでもない思い出したくない過去の出来事ばかり。明るく希望を抱かせる出来事なんてない。これもうんざりしてきます。おまけにニュース報道っていつから司会者やコメンテーターが好き勝手に解説、色付けして言うようになったの?したり顔、訳知り顔でとくとくと弁を垂れるこいつら見てると、温厚なやまさんでも、画面にむかって、天誅!といって握り拳を突き出したくなります。
 まあ、たくさんの本に囲まれているから本の方を読めばいいのでしょうが、若い時のようにそんなに本ばっかり読めない。目が疲れるし、集中力も長続きしない。寝正月でほとんど家にいるのであれば、本、テレビ、お布団の中、とバランスよく過ごしたい。(なにが、バランスよくじゃ!十分不健全ですわ。)
 テレビ番組には期待できないから、今日、DVD屋さんに行って映画を何本か借りてきました。全部旧作だから一本80円で借りられます。映画館に行くことを思えば安いものですわ。この間図書館で借りた無料のビデオやDVDも何本かありますから、それらもあわせ年末年始、見るものには不自由しません。

 あと家での娯楽になりそうなもの、先ほどまでやってましたが、グーグルアース、面白い。立体の地形、建物、それと鳥が飛びながら眺めるような風景、いいですね。
 今、15世紀、室町時代の京都で起こった大飢饉の歴史書を読んでたんですが、当時も京都にあったものといえば、周りをめぐらす盆地の山、鴨川、建物は東寺などですから、中世の京都の歴史イメージとしてグーグルアースで東寺の五重塔を立体で出し、思考の手掛かりとしたわけです。奈良の東大寺、法隆寺も立体表現できるからすごい!
 ゲームで関ヶ原の合戦や川中島の合戦がバーチャルに再現できてはまってしまうというのもわかりますわ。
 それでグーグルアースでやりました。読んでる本の主題である「応永の大飢饉」に鴨川の河原は死屍累々、夕映えの残照で(時刻設定すれば夕日も再現できる、すごい)赤く不気味に染まる空を背景に東寺の五重塔の黒いシルエット。上空からは浅黄色から濃紺へもう闇が降りてきている。五重の塔の屋根瓦には無数の真っ黒な大ガラスが留まり、グエー、グエーと鳴いている・・・・・・・・
 グーグルアースで眼前にここまで再現できます。ま、細かいのはやまさんの空想も入ってますが。歴史書の面白さが百倍になります。
 この時、ふと、(やまさんは分裂気質を持ってますから脈絡なく全く別の考えがポコポコ浮かびます)同じ15世紀、中世ビザンツ帝国の最期の情景が見たくなりました。2000年に亘ってローマ帝国の伝統を引き継いできた帝国の最期、オスマンに攻められ残る最期の地は祈りの聖地、セント・ソフィア大聖堂。
 京都の東寺の立体地図の上部の検索に「イスタンブール、セントソフィア寺院」入れると、ググググーッと鳥瞰図が引き、上空へ大気を突き抜け、はるか成層圏へ、地球の丸みが認識できる高空まで来ると、大陸間弾道ミサイルのようにユーラシアを西へ、中国、タクラマカン砂漠、カスピ海、カフカス山脈を越え、黒海辺りへ来ると急に高度を下げ、ググググッと地上へ、ボスポラス海峡が眼前に迫り、小さな船までが見えてきたと思ったらもうイスタンブール、ビザンツ帝国のコンスタンティノープル。あとは私がマウスで大伽藍の入り口まで行きます。
 二千年の古都は今やオスマン帝国に攻め込まれ風前の灯、都中の老若男女が集まったかと思われるほど大勢が最後の祈りをささげています。全員、都とともに殉ずるのか?しかし慈悲深いオスマンのスルタンは・・・・・・・・。
 この一連のワープの凄さにやまさんはエクスタシー、時を飛び、空間を飛び、妄想も全開します。応永の大飢饉の京都から、1453年のコンスタンティノープル攻防戦まで一足飛び、こんな面白いことはない。いろいろ歴史の本と組み合わせて楽しみを開発しますわ。


 広い世間、多くの人々、会いたくてもなかなか会えないのが人の世の定め。ところが今日昼過ぎ、自転車どうしが出合い頭の遭遇、よく見ると、おなつかしや、この間まで一緒の訓練生、立ち話もどうかというので、マックでお話ししました。
40年前のやまさんの寝正月の姿
  

 


 

2010年12月28日火曜日

師走の空

 はやい、はやい、はやすぎる。こんなにも時の流れってはやかったものか。振り返ると一年ってはやいというけれど、師走になり、まるで急な坂を転がるように加速度がついて以前より更にはやまったきがする。今日はもう28日、なんの準備も覚悟もないまま年の暮れと新年が、ドドドドッツとやってくる。
 どうぞ、ご勝手にと、時の流れに掉ささないまでも、流れから身を離し超然と過ごせたらいいのだろうが、そうはいかない。時の流れに逆らい得た人や超越した人は残念ながらいない。新しい年が来れば、人は年を取る。着実に歳を重ね、その体に老いを刻み死へと確実に一歩一歩進んでいく。
 それがどうだ!年々歳々、歳と共に一年がはやまるのは!60歳が来て一年がこんなにはやく過ぎるというのは、まるで断崖絶壁に一直線に向かっていくブレーキのない車に乗ってアクセルを踏んでいるようなものだ。
 特にこの月師走のはやいこと、一か月なんてあっという間、12か月の名称の中でこの12月に「走」という文字がはいっているのは、なるほどと納得させる。
 
 そうはいっても、このはやまった時を寸暇を惜しんで有効に使おう、などという気は起きてこない。のろのろ、ぼんやり、の日々。高校生の時、倫理の時間にある四字熟語を知り、忌まわしい言葉じゃと思い、自分はこうはなりたくないと決意したのも夢のよう。今はその言葉通り
「酔生夢死」
 同じ倫理の時間に「老荘思想」を聞きかじったが、酔生夢死と相性が良いような気がしたが、さあ、どうだろう。怠け者を正当化してくれる哲学なんてないわな。
 
 で、今日ものろのろ、ふらふら午前10時過ぎに家を出た。快晴で風もなく日差しが心地よい。
「年末、年始、読む本を借りてこようか。休館日がかなりあるから、10冊くらい借りようか。」
 徳島の図書館へ行こうと思い駅へ向かう。
 空から、わんわんと声が降ってくる。見上げると雲一つない青空に小型飛行機が旋回している。それがかなりの音量で宣伝文句をがなりたてている。人形店の宣伝か、と思いよく聞くと今日は、石井の野菜市の宣伝。ブーンというかすかな音とともに、ラウドスピーカーの大音量がときにより小さくなったりもとに戻ったりを繰り返し降ってくる。
 このような宣伝方法、私の住んでる田舎だからありえるのだろうな、と思いながら歩く。初冬の穏やかな午前、静かで車や人工的な音も少なく、耳を澄まさなくても小鳥の声が聞こえるくらいである。都会だとこうはいくまい。騒音が多すぎて無理だろう。
 こどもの頃はこの上にまだ、ビラ、チラシを撒いていたのを思い出した。空からひらひら舞い落ちるビラを喜んで拾いに走ったことがある。その中に当たりビラがあって引き換えにブドウまんじゅうをもらったこともある。今、これをやったら苦情殺到だろう、いや、その前に法律で禁止されているのだろう。交通量の多い国道で車のフロントガラスに舞い落ちて張り付いたら大事故になるだろう。ごみを作るのか、と怒る人もいるだろう。昔は車も少なく、のんびりとおおらかだからできたのだろう。
 徳島の図書館へ行ったら今日から休館日、ええーっ、官公庁も今日まではあいてるぞ。

2010年12月27日月曜日

干し柿

 私の住んでる町はまだ農家も比較的多く、専業農家もある。これらの農家の庭先あるいは軒下では、冬枯れの季節、つづく晴天と乾燥した天気を利用して、乾物を作る。
 昔は、サツマイモを茹でて干した「ゆでぼし」、干し大根、干し柿、そして餅つきが終わると、おかきやあられにするため薄くスライスしたり、短冊状に切ったお餅を干した。保存がきくし、また食料の乏しい季節には主食の代わりともなる。間食やおやつにも食べられた。そのため、どこの農家でも大量に作られ、これら乾燥させる食物を軒下に吊るしたり、はしご状に作られた桟に並べられ、家のぐるりを取り囲む光景は珍しいものではなかった。
 しかし、最近は農家でもこのように多量に乾物を作ることはなくなってきた。食生活も変わり、嗜好も変化したのであろう。ただ、干し柿だけは量は昔ほど多くないが、軒先に吊るされ干されている。
 散歩をしていると赤みががかった飴色と呼んでいいのだろうか、ほんのちょっと半透明になり、適度の硬さとしわ、そして白い粉が吹いた吊るし柿を見る。軒に干されているのは私の子供時代と同じだが、昔と違い藁しべでなく白いビニールの紐で吊るされているのが時代を感じる。
 干し柿は甘味の少なかった時代、おやつ、間食として食べられ、料理の食材としてはあまり用いられなかった。
 今日、江戸時代にこれを食材として用いた簡単なレシピが書いてある本を見たので(江戸時代の暦の余白にメモ書きのようにかいてあるので、詳しい調理方法はない)、以下、紹介します。おいしそうに思われた方は作ってみてはいかがでしょう。
 
 豆腐と干し柿の白和え
  よくしぼって、水気を取り、裏ごしした豆腐と、短冊切りにした干し柿をまぜ、塩少々で味付けする。

 
 なます
① 大根と人参をそれぞれ千切りにして塩少々をふりかけておく。
② ①がしんなりしたら、さっと水で洗い、よくしぼる。
③ ユズの皮少々と干し柿を千切りにして②にまぜ、砂糖、酢、みりんをかけ、よくまぜあわせておく。
 数日おいたほうがおいしい。

 わが町、吉野川市には霊峰、高越山があります。昔、この山で農家の人の副業で高野豆腐、(高野山でないから、高越豆腐というべきか)を作っていました。
 これも冬の山の氷点下の気温を利用して凍り豆腐を作り、乾燥した風、天日で乾物に仕上げました。
 高野豆腐も干し柿のように軒下に吊るし作られていたのです。若い人は思いもかけないでしょうね。
 信州では同じような原理で寒天も作られました。他、シイタケなんかも。
 昔は町に一軒は乾物屋さんがあってこれらの商品を専門に扱い小売してましたが、今は絶滅状態、若い人が知らないのも無理ありませんね。
 
 

2010年12月26日日曜日

ほろ酔い

 昨夜は午後9時20分ごろ佐古駅の駐輪場にいた。
 宴の途中で列車の時間があると皆と別れ、ここまで15分くらい必死の思いで自転車を漕いできた。西の方角にある佐古駅まで、その間、強西風と雪交じりの凍るような風に苦しめられ、水洟を垂らし震えながら駐輪場にようよう到着した。
 雪交じりの風はやむ気配も見せず、手袋をぬいで鍵をかける手が震える。二重ロックにしていることが恨めしい、今夜はカチャカチャと音ばかりで手際よくロックできない。時折、ゴーツと吹く強風にますます寒さが募る。ようやく鍵掛けが終わり、待合室に急ぐ。街灯もほとんどない駐輪場から20メートルで入り口がある。周りの暗さに比べ一階にある全面ガラス張りの待合室はやけに明るい。しかし、人のいない待合室に入っても暖房一つあるわけでなく、蛍光灯の冷たい光がむしろよけいに寒さを感じさせる。
 時刻表を見るとまだ25分ある。少しでも中の方が寒さをしのげるかもと思い無人の改札を通り、コンコースへ、一階のエレベーター前のベンチに腰を掛ける。プラスティックの椅子は凍るように冷たく、ズボンを通してジワーッと寒さが這い上がってくる。ズボン下も穿き、毛糸の帽子、フード付の厚手のオーバーコートも着て着ぶくれているが今夜はそれでも寒い。 

 コンコース内はそれでも風がないだけしのぎやすい。寒いことは寒いが腕を組み体を丸めて坐っていると、まだほろ酔いが残っているためか悪い気分ではない。ほろ酔いと言っても酒に弱いためハイボール一杯とちょっとでこの状態である。
 「うーうう、うーうう」
 「うーうう、うーうう」
 と唸ると何故か気分がちょっとよくなる。また、寒さもましになる気がする。しばらく断続的に唸る。
 「私は、何をやっているのだろう?人気のない寒い駅のベンチで、毛糸の帽子を目深にかぶり、フードですっぽり頭を覆い、丸くなり腕を組んで、唸っている。それも気分よく唸っている。おかしいぞ。これは苦しみの呻きではないのか。そうだ、苦しみの呻きに違いない。」
 そんなことを考て苦しみの呻き声のつもりで
 「うーうう、うーうう」
 と声を出すが反対に増々気分はよくなる。
 「これはアルコールの効果なのか?寒さ、孤独、貧窮、持病、などもってここに丸まってる60歳の爺さんの呻吟を気分の良いものに変えるのは。」
 「なるほど、古来より、酒は憂さを晴らし、苦しみを忘れさせるものと言われているのもわかる。」
 「幸か不幸か私はアルコールに弱いため今までそんな状態になる前に頭痛がして気分が悪くなった。ところが今夜はなぜか気分がいい。不思議だ。猛烈な寒風の中、15分も自転車を漕いだ相乗効果だろうか?」
 「そうなら、酒を飲むだけでほろ酔いになれる体質の人がうらやましい。ほろ酔いとはこんないいものなのか?」
 こんどは唸る代わりにぶつぶつ言いたくなった。
 「でもなにをつぶやこう、ボヤキにしようかな。」
 「いやいや。私はつぶやきやボヤキを一人でやる習慣を持っていなかった。これはやめよう。どうせなら、歌がいい、歌にしよう。」
 「えーと、まず、選曲、演歌?民謡、格調高くクラッシック?」
 「しかし、ほろ酔いで、いや、ほろ酔かどうかも怪しい、しかもよい気分になるため酔ったふりで歌うのっておかしくないか?」
 「うん、十分、おかしい、これもやめよう」
しばらく間、頭が空白になる。
 「おおお、下りの列車時刻が近いのか男女の高校生5人グループが来たぞ。呻くのも、歌も終わりじゃ、今、午後9時40分じゃ、あの高校生らえらい遅い帰宅じゃ、なんしよんな?」
 「クラブか、塾か?」
アルコールのせいか、よからぬ妄想が浮かぶ。
 「まさか、不純異性交流?」
 「そういやあ、わたしが16,7歳の時は、新聞は不純異性交流のこと、桃色遊戯、なんぞといいよったな、えげつない言葉じゃ。」
 「いかんいかん、あたまが、くるくるすっとんぱー、になりよる。」
 「あと5分じゃ、私も、行くか、」
高校生を乗せて二階のプラットホームから再び戻った無人のエレベーターに乗り、寒い外気の中しばらく列車を待った。
 

2010年12月25日土曜日

北越雪譜を読み始める

 今日は朝から気温が低く、季節風も吹いて、起床してもホットカーペットの上でゴロゴロしている。最近の寒さで朝起きるのが億劫でなかなか起き上がれない。でも寒いせいで以前よりは少し安眠できるようになったのか、ここしばらく夜中に目覚めてトイレに行かなくなり、6時前までそのまま寝られるようになっている。
 しかし、寒さで縮こまるようになったせいか、あちこちの筋肉が攣るようになった。2日前に肩から首にかけて痙攣しまだ筋肉痛が残っている。
 これだけ寒いと外出も億劫になりますます運動不足になり健康のためにはよくないとわかっていても、出不精になる。今、午後3時半だが昼前にちょっと買い物に外出した以外はずっと家でいる。もっとも今日は、以前の訓練生の仲間と会うため5時前には列車で徳島まで行く。暖かくしていこうと思っているが、しばらくぶりに仲間に会うのは心も浮き立ち、寒くても苦にはならない。
 夕方まで家でごぞごぞしてるから、本でも読もうと考えたが、何にしよう?。図書館で2冊借りていてそれは少しづつ読んでいるが、たいして骨のある本ではない。明治以前の古典がいい。と思いながら外を見ると時々雪が舞っている。「そうだ、北越雪譜にしよう」
 これは江戸の天保時代、越後の鈴木牧之の書いた雪国の風土記と呼べる本である。大昔、読んだことのある本だが寒波到来のこの時期再度読むのも一興と古い本の堆積の中から引っ張り出した。もちろん江戸期の文章なので旧字体、旧仮名遣いであるが、読者を意識して書いた江戸後期の読み本に近い文体のため、この間読んでいた長井の「長崎日記」より読みやすい。また、木版画の(白黒だが)挿絵も入っており、以前読んだ時、楽しく読み進んだのを思い出した。しかし、内容はほとんど忘れている。
 「よし、読むぞ」
 でも、もう4時過ぎ、そろそろ徳島へ行く準備をしなければならない。小雪舞う中突き進む列車のなかで半時間、序文だけでも読もうか。

2010年12月24日金曜日

クリスマスの日に聴いた歌

 今日、街中で聞こえる音楽といえばどこもかしこもクリスマスソングばかり、子供の時から何度も聞いた曲がほとんど、クリスマスソングだけは老いも若きもあまり違わない曲種である。「ジングルベー、ジングルベー、鈴が鳴る・・・・・」とか「ホワイトクリスマス」、「赤鼻のトナカイ」など、それこそもう嫌になるくらいBGMで流れ、うんざりしている。
 ちょっと新しいところでも20年にはなろうとする、あれ、ほれ、それ、曲、忘っせたわ。「雨は夜更けすぎに雪へと・・・・なんたらかんたら」そして新井由美の「恋人は三太苦労す」など。
 こんだけクリスマスソングをガンガン流し、クリスマスの雰囲気をいやでも盛り上げ、我々の情緒を音楽で無理に掻き立て、鞭打つようにクリスマス、クリスマスと追い立て、それこそ人どころか草木も靡かすようにして、いったい何をしようとしているのか。
 これだけクリスマスをもてはやしている国だから、キリスト教徒が多いのかといえばそうでもない。クリスマス盛り上げには成功したが、布教は数パーセントが信者であるのみで成功したとはいいがたい。
 ただの祭り好き、騒ぎ好きなだけなのか。夜が長いこの季節、ぴかぴかした赤い灯青い灯のもとでやるパーティーは楽しい。年忘れにもちょうどいい季節。学生・生徒も勉強は一段落、わいわいやる口実にはもってこい。
 私は信じられないが、クリスマスは男女の仲も和らげ、濃密に交流をさせるようで、どこのラブホテルも大入り満員、待機の車が入り口で列をなすという。ほんまかいな。聖夜に結ばれたらなんかご利益があるんかもしれんな。
 人生、いろどりのある行事も必要で楽しくやるのはなんら文句はないが、2か月も前から街で流れるBGMはクリスマスソングばっか、というのはどうにかならんもんか。
 で、今日は聖夜当日、明後日からは六日の菖蒲、十日の菊、流せばちゃんちゃらおかしいから、ここを先途とクリスマスソングの大洪水、わたしもつられて、テレビのお笑いネタで歌ってた替え歌もじりで唱和
「ほーでんな、さいでんな・・・・・」
 
 昼、友達とランチを食べたあと、ちょっとドライブに、ということになった。巷の狂乱状態にあるクリスマスの喧騒を避ける意味で、わたしの提案で板野町の「あすたむらんど」へ。来て正解。およそ賑やかさとは対極の、よくいえば静寂、落ち着いた場所。悪く言えば衰微の極み。われわれ入場者よりもしかしてスタッフが多いかも知れない客の入り。
 私と一緒に入った10人くらいの高校生の男女のグループ以外、だだっ広い園内には見当たらない。このグループ、品行方正の見本のような高校生、65年前の青い山脈の高校生を彷彿とさせる。みんなで天文科学館へ学習見学へ行くとのこと、ここあすたむらんどは基本的には学習の場なのである。こんなとこ、そしてこんな入場者のいるとこ、やまさん、大好きなんです。

 園内の各場所をめぐるとぽつぽつ人がいる。でも一人か二人、客は極めて少ないが荒廃した感じはしない、大勢のスタッフが手入れしているのだろう、園内は整理・整備されていてさっぱりしている。3時前にコーヒーを飲みに食堂へ入る。入ったときは我々2人のみ。3時からここでショーがあると聞いたが、「ホンマにあるんかいな、客がおれへん。」
 それは、地元の女子高校生の素人漫才の前座から始まった。けっして上手ではなく、笑いもできなかったが、威勢よくぽんぽんと掛け合いの漫才をする二人に何より感動した。わたしがパチパチと拍手したり写メールをとると大げさにジェスチャーで答えてくれた。観客は我々たった二人である。けなげと言っては失礼だろう。上手下手は別としてこんなにきっちりステージをこなす女子高校生を見て、芸に打ち込む真摯さに心から拍手させてもらった。「これからもがんばってね。」
 そのあとメインのウイグルから日本に来た演奏者の民俗音楽があった。この時になっても我々をいれてたった6人。
 民俗衣装をきてアコーデオン一丁をもったウイグル人が登場して、自ら伴奏して歌が始まりました。このところジングルベーの曲ばかり聞いて食傷気味だったやまさんの耳に固有で独特のウイグルの曲が新鮮でさわやかに鳴り響きました。
 三曲歌いましたが、その中の草原の歌、の時、私はしばらく目をつむってウイグルの人、ウイグルの風土に想いめぐらせました。中国人から弱小民族として蔑みや迫害があると聞きます。しかし、ユーラシア大陸を馬で縦横に闊歩した騎馬民族の誇りをもって朗々と歌い上げる、草原の歌には、負けることのない雄々しい民族の魂が込められています。絶対に滅ぼしてはならぬ貴重な歌である。
 たどたどしい日本語で、8000キロ離れた故郷に残した家族をしのびつつ歌う、という言葉を聞いたとき何かほろりとするものがこみあげてきました。私も含めて日本人はシルクロードが好きな人が多い。こんな貴重な民族文化を少しでもサポートしてあげたいと思う人はたくさんいるとおもいます。でも、たった6人の観客、演奏のウイグルの人に済まない気がします。
 巷では夜にかけて増々高まるクリスマスソング。キリスト教徒でもないのに放歌高吟。しかし、私は今日たった6人の演奏会でしたが、敬虔なイスラム教徒であるウイグルの歌を聞けて、さわやかな気分で満足した一日を終えることができます。

携帯動画のため画質も音質もよくありません、うまく伝わらないのを恐れますが、こんな感じの演奏会です。
この後、この人の娘のウイグルの踊りもありました。下が写真です。

2010年12月23日木曜日

壇の大楠

  私の家からまっすぐ南に向かえば山につき当たる。その山の麓、少し上がったところに大楠がある。少し距離はあるが運動をかねた散歩によいので、秋、冬はここまで足を延ばす。この辺りは他にも古い神社やお寺もあり私のお好みのコースである。
 去年の今頃は毎日のようにこの辺りを散歩していた。一年もたてば嗜好も徐々に変化するものなのか、それとも少しずつ体力が落ちてきているのだろうか、あまり行ってないことを思い出した。二時過ぎDVD屋さんに寄ったついでにこの大楠まで久しぶりに行ってきた。
 三時前に着き、携帯写真で撮った。
 この大楠、名前がある。「壇の大楠」という。人の寿命から考えると信じられないような年齢をもった古木である。樹齢、推定約1000年。よく長らく持ちこたえてきたものを例えて、風雪に耐えて何年、とかいう言い方をされるが千年この地にあって文字通り風雪に耐えてきたのである。風雪どころか千年もの間には落雷も一度や二度ではなかっただろう。
 木はわれわれ動物と違って当然動けない。積極的に行動してわが身を守ることはしない。太陽と水の恵みだけ受けてじっと立って生きるしかない。
 千年生き延びたのは、楠という樹種、あまり建築用材として使われない。のが幸いしたのか、また今でもこの横に小さな祠があるが、信仰の場所を象徴する木であったためだろうか。深い森の中でなく、古代中世から開けたこの地にあって千年、よくぞ人に切り倒されなかったものである。奇跡に近いのではないかとも思えてくる。
 
 木の根方はおとな5~6人でなければ抱えられないくらい太くてどっしりしている。土地から巨大にせりあがっていく木の下方は、大きな独立した山、富士山のように裾を引いていて、よく見るとその山のふもとのように谷や山襞のようなものがある。分厚い鱗様の樹皮は一様でないさまざまな色の変化をみせ、遠くから見ると苔の生した巨岩のようにも見える。
 枝とも幹とも見分けがたいものが土地からせりあがってすぐ分岐している。そしてそれらの幹もうねうねと這うように上方に伸び同じように枝か幹か見分けがたく分岐している。それらは単純に伸びているのではない、千年生きてきた苦悩を表しているかのように複雑に内部の力が蠢き、思わぬ動きがかろうじて表面の樹皮によって押しとどめられ、さまざまな方向へ延びようとするいくつもの流れが合わさってようやく何とかひとつの流れになったという形になっている。うんと上方はまるで神話に出てくる、やまたの大蛇、のように動きのある曲がり方をしている。
 千年の風格を感じさせる老木である。

 この老木、最近、弱ってきている。松などと比べると病害虫に強いとはいえ、人と同じで寄る年波には勝てないのであろう。写真からもわかるであろうか、葉のつき方がうんと少なくなり離れたところから見ると枯れ木のようになっているのである。御存じのように楠は常緑の木であり葉を全部落とすことはない、しかし昔、私が見たような生い茂った木の姿は見られなくなった。これは私一人の印象ではない、5月頃通りかかったとき、たぶん市役所の依頼からだろう、樹木医さんだろうか、専門家の人が木の手当てをしているところに行きあい、少し話を聞かせてもらった。かなり弱っていて枯れるかもしれない。と言っていたのである。
  
 平安中期に生まれ、平成の御代まで1000年生きたが、生きとし生けるもの、事故・故障がなくても寿命が来れば死ぬのは定め、天の国にいる天人でさえも五衰して滅する。世界さえも劫が尽きれば消滅する。
 近寄って手で愛おしむように撫でながら思っています。
「木よ、千年、よう、がんばりぬいたな。みたところ、老衰の症状がでとるが、まだ、ところどころ若枝が出て葉をつけてる。このまま死ぬんか。もうちょっとがんばろな。」
 私よりはるか昔から生きてきた木であるが、まるでやまさんの老衰に合わせてくれるかのように最近年老い枯れつつある古木に限りない愛着を感じるのです。
  

2010年12月22日水曜日

ネットより読書

 インターネット引いて、約2か月、最近つくづく思うことは、

「ああ、パソコンに振り回されてる。」 

「インターネットで情報に瞬時にアクセスできるけど、なんか、たくさんの量がドドドと押し寄せ、情報のガラクタに押しつぶされそう。」

「だいたいインターネットの情報は、品がないし、奥ゆかしさもない。」
 
その点、本を読んで知識を得たり調べたりすることは、時間がかかるが

 「本から得たものは身についた実感があるわ。」
 
 「わからない調べものでも、インターネットのようにパッと明かされないが、奥の部屋や二階の本の堆積のなかにそれはひっそりと埋もれていて、わたしがごぞごぞとかき分け探しに来るのをじっと待っている。奥ゆかしさがある。」

「目が疲れたり、肩が凝ったときは、本をパタンと閉じれば、いつまででも待っていてくれる。体調を気遣って、畳の上で一緒に休んでくれる。」

「新しい発見をしたり、詩歌、小説を読んでちょっと感動したりしたときの癖で私は本をしばらく置く。そして、まるで小さな感動が本の形になったようにしばらく手で撫でたりして愛玩する。」

「ああ、本を読むっていいな。」

 というわけで初めのパソコン・インターネットの熱も冷め、この頃は本やノートに回帰しつつあります。もともと生まれつき鈍くて愚図のやまさん、パソコン・インターネットに時間を取られ、本を読む時間がなくなっていたのが気がかりでした。二つもするのは難しい。
 自分は本やノートの方が向いています。
 で、これからは読書に力を入れます

 昨日は雨でしたので、本を読み進みました。長井長義の「長崎日記」一応全部読みました。慶応2年11月から慶応3年7月までの9か月間、遺失したのも少しありますが、この期間の彼の行動、勉学はよくわかりました。
 化学実験に関しかなりな技能を実践・実習によって習得している。蒸留、抽出、ろ過、再結晶など基本的な操作を基本的な薬品あるいは試薬を作ることによって学んでいる。これはすごいことである。ふつう全く一から薬品を作り出し、そのうえで化学実験をするのは手間暇がかかるので、基本的な薬品は購入したりして他から手にいれる。しかし幕末の長崎では、輸入薬品が多少あるとはいえヨーロッパの化学者のように多くを他から手に入れるのは難しかったのであろう。それゆえいろんな化学薬品を作っている。わずらわしく時間も金もかかるが、しかしこのことにより欧米に伍していける化学者を養成することができたのである。
 定量的な化学分析の記述はないが、日記を読む前に想像していたよりもかなり進んだ高度な勉学をしている。

 さて、竜馬との接点であるが、当時竜馬は偽名で活躍しているが、長井は土佐人とかなり親密であったようで、本名を知っていたのである。これは日記の校正者の注にある。
 そこで「坂本竜馬」が記されてある唯一の箇所、慶応3年5月22日の日記

「・・・・・・船将は坂本竜馬と云う。脱藩人なれども兼ねて高名なる議論にて長薩の間に徘徊し、しかし二君には仕えず、ただ皇国の為と唱え・・・・・・・」
 伝聞の形での記述である。そのほかには見当たらなかった。もっとも日記は7月で終わっておりそののちも長井は長崎にいるから、これ以降接触があったかもしれない。

 長井は自然科学者を目指す者であり、日記の記述は客観・科学的なものである。詩歌や散文的な記述はない。しかし日記の最後となる慶応3年7月の盆の宵のことは読むと文学的な感興を催す。
 長崎は山が街のすぐそばに迫っている。盆の宵、その山の斜面に段々にある先祖の墓に家中集まり多くの蝋燭を灯し、献灯する。たくさんの酒肴を持ち寄り互いに酌み交わす。決してしんみりしたものではなく花火・爆竹など打ち鳴らしたとあるからにぎやかであったろう。
 夜、満山が灯火で天を焦がすのを見て、長井は、実に目を驚かす。と書いている。
 そして盆の終わりの夜、いわゆる送り火、ここ長崎では、おおきくりっぱなシャウロ船に灯火を灯して流したと、ある。彼は、「実に仰山なり。ついに八つ時より暁に至るまでこの船、絶えず。」と淡々と書いているが、読んでいて夜の川面を灯をともし揺らめき漂ういくつもの精霊船が目に浮かび印象深い。

 さだまさしの歌で有名なように昔から長崎地方は「精霊流し」がさかんであったのが日記から読み取れる。
  そしてこの6日後、日記は終わる。


  

2010年12月21日火曜日

天文地象変異

 今日12月21日は旧暦の11月15日、旧暦では15日は必ず満月になります。
 ところで、皆さん暦は作れますか。「えっ、それ、何のこと?暦を作るって。」といわれそうですが、そんなに難しく考えないでください。
 簡単にいえば、来年の12枚の月ごとの曜日の入ったカレンダーです。「なーんだ、そんなことか。」大人だと誰でもできますね。「西向く侍」すなわち、2,4,6,9,11月を小の月、2月のみ28日であと30日。そして残りの月は31日。それに7曜日を単純に繰り返せばいい。そして西暦が4で割り切れる年のみ2月は29日となる。これでおしまい。数百年はおなじことの繰り返し。
 ただしこれは太陽暦のこと、旧暦、すなわち太陰暦となるとこうはいきません。専門家以外誰にも作れません。何月が大の月か小の月か、そして時々来る閏月、同じ月が二回もある。一年が13か月となる。それは何月になるか、素人には絶対無理。
 まあ、やまさんは、自慢でないけど(といいつつ自慢してるわ)昔、ちょっと本を読んだから、天文年鑑があれば、つくれます。
 日本の歴史始まって以来、千数百年、作るのが難しい暦、太陰暦(正確には太陰太陽暦というんだけれどね)を使ってきました。でもだれも来年の暦は作れない。作れるのは特別な技能と天文観測、計算ができる人々のみ、朝廷にいる天文博士や陰陽道の部署のその道の専門家。
 そこで朝廷は前年の暮れが近くなると彼らに作らせた暦を頒布しました。そこではじめて人々は新しい年の暦、いつが大あるいは小の月か、余分な閏月はあるか、あるとしたらいつかを知ったのです。国が乱れ朝廷の支配力が衰えてもこの暦の頒布を通した朝廷の、いわば時をも支配するという構造は変わりませんでした。他の人には作れないんですから。だから元号制定よりもこちらの方が重要な気がします。
 でもね、これ、大変なんですよ。いくら専門家とはいえ高等数学や正確な天文機器がなかった時代、間違いがあったのです。恐ろしい結果をもたらしかもしれない間違いが・・・・・・・・・・・

 今日は旧暦で15日、満月の日と先ほど言いましたが、今日天気が悪くて見えませんでしたが、もう一つ珍しい天文現象があるのです。MOTOさんの今日のブログにも取り上げられている皆既月食です。
 陰暦では15日が満月ですので月食は必ずこの日に起こらなければなりません。また月食以上に少ないがより重要な日食は、朔。すなわち新月、旧暦では月の1日に起こらなければなりません。ところがですね、月が地球を一周するのは29日と半端の小数、一で割り切れない。
 ま、難しいことは省くとして結論から言うと、1や15日に食が来ない場合があるのです。ずれても1日ですけど、その場合、前月までの月を大や小にして食は必ず1や15日に来るようします。しかし専門家でも難しい。まして中世の時代なんかは。
 暦には月食、日食の予報が書き入れられています。もしこれが外れれば国中大騒ぎと言っていいほどの事故になります。時を支配するといわれた為政者の信用度はがた落ち、正統性まで問われかねません。中世末、このずれは大きくなり信用度は落ちますが、他につくれる人がいないのでずれの大きいまま使い続けられます。やっと徳川幕府が成立し、正確な暦が新しくできます。(実質幕府が作ったが、形式的には京都の陰陽道の公家、土御門家、安倍の晴明の子孫、から頒布された。)

 日本の大部分で月食は天気が悪く見られないとのことでしたが、さっきテレビを見ると釧路からの中継で赤黒いちょっと不気味な皆既月食の月が写っていました。画面をみながらこんな赤黒い月を昔の人はどのような思いで見たのだろうと考えていました。朝廷から頒布される暦に載っていれば、まあ、変異な天文現象が予言され的中したのであるから時や天運の巡りに安堵したことでしょう。しかし、的中しなければ不安を掻き立てられたに違いないでしょう。まして、思いもかけぬ、2日に日食が起こったり、14日に月食が起これば、恐ろしい恐慌が巻き起こっても不思議ではありません。
 予期せぬ天文現象の変異はこの世の大変異に結び付けられ恐れられたのです。
 太陽、月、金星、その他の惑星は複雑な動きをするが、大昔よりある程度動きが予想され、暦に書き入れられ人々を安堵させました。しかし、たまに全く不意の動きをする天文現象が起こります。「ほうき星」・大彗星です。
 中世に夜空に長く尾を引いて突如として現れた「大ほうき星」。人々はこの世の終末の予兆ではないかと恐れました。

 大ほうき星が終末の予兆であるとは、何かを暗示していませんか?いまから6700万年前、のある夜、急にあらわれ夜ごと大きさ長さ明るさを増していった大彗星、知覚できたかどうかわかりませんが恐竜たちの目には映っていたでしょう。まさに終末の大ほうき星。最後の夜、そいつはどれだけ綺麗に夜空を彩ったことでしょう。そしてディープインパクト。中生代は終わりを告げます。
 われわれ人類もこのほうき星に言い様のない不安を感じるのはもしかして先祖のDNAが残っていて呼び覚ますのかもしれませんね。

 今日、12月21日はまた64年前の南海大地震の起こった日でもあります。大津波が起こり、千人以上の死者がでました。今度いつ起こるかもしれません。中継の赤黒い皆既月食をみていると遠くない日ではないのかと不安にさいなまれます。
 人の世、天変地異はあり得ること、しかし、老い先短い、やまさん、生きてるうちは
どーぞ、おこらえなして



 

2010年12月20日月曜日

長崎日記のつづきⅡ

 「長崎日記」、半分以上読み進んだ。慶応2年の年の暮れ近く長崎にやってきて、だいたい毎日日記をつけている。今日は慶応3年の6月末まで読んでしおりを挟み今日の分を終えた。やって来た当初はまだ不慣れか、訪問、買い物、友人たちとの懇親、町屋の様子、などの記述が多かったが、正月を過ぎるといよいよ本格的な勉学が始まり、専門的な記述が増えてくる。
 竜馬との関係であるが、今のところ直接あったということは書かれていない。竜馬は長崎で亀山社中を発展させた企業集団、海援隊を創設するが、長井はこのうわさを聞き、どうも最初は山師的な集団とみていたようである。それ以外はとくに竜馬に対する詳しい記述はない。竜馬以外の土佐人においても長井にとって、長崎において同じ勉学の仲間ではあるが、阿波藩の藩費留学生としてライバル意識もあったに違いない。それだからであろうか、よきにつけ悪しきにつけ土佐人のことは日記に頻繁に書いている。もっともこれから読み進めば竜馬との密接な関係が浮かび上がってくるかもしれない。

 長井は医学の留学に派遣されていたのであるが、日記を読むと医学より舎密、すなわち化学の勉強を優先させていたのではないかと思う。日記の専門的な記述は、圧倒的に化学の方が多い。
 もっともこの当時、長崎に学ぶ最先端の西洋医学と化学は密接な関係にあり、最新の医薬は化学的知見によって得られたものであった。
 古今東西、医薬は生薬であった。草本木皮が薬であったため有効成分は一部であり、また、成分は不安定でもあり、量も個々の処方によって違うのはやむを得ないものであった。
 ところが西洋の医学は化学の進歩とともに、有効成分を純物として抽出に成功する。すなわち薬品の結晶状態にした分離である。これにより医薬は安定した効能を発揮でき、研究も進み、誘導体から別の医薬を開発することも可能になったのである。
 この慶応3年から約60年ほど前、西洋の化学者たちはアヘンからモルヒネの単体結晶を初めて分離した。そして15年後にはマラリアの特効薬、キニーネの単体結晶、その後続々と。
 これにより何ミリグラムの薬を飲めば、人体にこのような影響があると数量的に確かめられるようになったのである。このような科学的な方法こそが西洋医学が抜きんでて素晴らしいところであり、カンや目分量に頼る日本古来の医術と決定的に違うところである。
 西洋でもこのような医薬の化学的な抽出、分離そして研究はまだ始まったばかりである。その最新の学問が長崎で勉強する舎密学(化学)である。
 もちろん長井はこんなことを書いているわけではないが、コツコツと実験や薬品づくりに立ち向かっている姿を見ると西洋の科学的な方法に彼は確信をもっているのがわかる。

 具体的な医薬品を製造したようなことは日記には書いていないが、基本的な薬品づくりや化学操作のことについてはかなり詳しく書いている。
 みなさん、化学実験をするにあたってもっとも基本的な薬品は何が主になるか知ってますか?この薬品があれば他の薬品、試薬も作れるんです。昔はこの薬品の生産量が一国の無機化学工業のバロメーターだったんです。当然、日記の中でも彼はこれを作ります。
 それは硫酸です。硫酸づくりが日記に書かれています。これがないと塩酸、硝酸作りも当時はできません。
 また、ちょっと意外だったのは、(しかし当時の長崎を取り巻く情勢からすれば不思議ではない)、衝撃で簡単に爆発する火薬(おそらく信管や誘爆、爆裂弾に使用か)の製作実験をしていることである。大砲の火蓋に使うと書かれているがどのような使い方をしたのだろう。
 少し専門的になるが、これを作るためには塩素酸カリウムが必要である。日記には炭酸カリウムの精製について多く書かれている。またマンガン鉱の精製についても書かれている。いずれも火薬の原料の塩素酸カリウムをつくるためである。
 この他6月21日の日記には、当時の最新技術である電気めっきしたことを書いている。電池の製作、応用まで学習したのだろう。
 
 薬品の取り扱い、さまざまな科学実験は多岐にわたり、かなり一生懸命取り組んでいるのが日記から伝わってくる。若い時にこの長崎で学んだことはこののちおおいに役立ち、エフェドリン抽出・発見という世界的な偉業に結びつくのである。
 ここでちょっとエフェドリンについて説明します。これよくきくせき止めの薬でそのほかにも使われていたんですが、実はこの薬、今はかなり使用に対しては神経質になっています。それは覚せい剤とよく似た効能があるからで、覚せい剤の代わりとして悪用する人がいるからです。
でも、適当な処方で使えば今も素晴らしい薬には違いありません。

化学実験器具
 

2010年12月19日日曜日

地元駅前であった音楽祭の動画

駅前からにぎやかな音楽が聞こえてきた
 二時ごろ列車から降りると駅前横の駐車場でバザーと音楽会が開かれていた。そういえば駅にポスターが貼ってあったぞ、みるまえにポスターを写メールで撮る。

これがポスター、演奏は民俗音楽とある。フォークか?よくわからない。グループ名は、「寺院ズ」。なんて妙なネーミングだ!
ぼんさんのグループか、そうでもなさそう。宗教に関係あるんだろうか、ようわからん。
















携帯動画で撮る。


二本をムービーメーカーでつなげ編集するつもりでしたが失敗、一つだけ生で投稿しました。
訓練が修了して大事なスキルはだんだん忘れていっています。
それと携帯の動画は動きがぎこちなく、短いから表現がごく限られたものになります。

2010年12月18日土曜日

湖への旅

 先日、新聞に絶滅したと思われていた魚、国鱒が山梨県の西湖で発見されたとのニュースが載っていた。もともと秋田の田沢湖にいた固有種であったのが昭和15年、温泉水が流れ込んでいた強酸性の川の水を水力発電の涵養水とするので田沢湖に流したため、酸性度が上がり魚が住めなくなり絶滅した。
 地元では幻の魚として発見者に懸賞金までかけて探していたそうだから、遠くはなれた富士山麓の発見とはいえめでたいことである。
 この田沢湖、みなさん旅行されたことありますか。もうすこし北に位置し、少し大きい十和田湖がどちらかというと有名ですからこちらの方に行った人が多いかもしれませんね。この辺りは薬効の素晴らしい温泉が多く、湯治も兼ねた旅行もできます。
 その田沢湖、見られた人はわかると思いますが、非常に魅力的な湖の色をしています。水彩画で緑の森と青空を描いた絵筆やパレットを洗った水の色とたとえたらいいんでしょうか、とても天然の湖とは思えない色です。エメラルドグリーンとコバルトブルーを混ぜた色。それも天気や太陽光の状態によって微妙に変化します。
 この人工的ともいえる湖の色、温泉の成分が流れ込んでいるためなのです。酸性度が高く、ちょっと前までは魚が住めない死の湖だったのです。でも前述のようにもっと昔、昭和15年以前は温泉成分が流れ込んではおらず、魚がたくさんいたのです。その後政策的に温泉水を流し込み魚は死に絶えたのです。そうして死の湖になったことに対するほんのちょっとした申し訳でしょうか、かわりに美しい湖の色になったのです。グリーンやコバルト色の湖面が銀の粒をまいたようにきらきらしているのを背景に畔に立つ高村光太郎作の黄金の辰子姫像は美しいものです。

 田沢湖は魚が住めない温泉成分でえもいわれぬ美しい色を持った湖になったわけですが、湖は分類すると魚や水生生物が多く住むことができる富栄養湖と魚や生物がすむことが難しい貧栄養湖があります。我々が見て「美しいなあ。」「ロマンチックだなあ。」と感じるのは貧栄養湖の方である。
 皮肉なことに生物が住みにくい湖のほうが、田沢湖のように湖水の色が美しかったり、透明度が高かったり、また静寂だったりして神秘的で深い情感をたたえています。
 寒いところにある、そして深い湖ほど貧栄養湖になります。だから寒い山の中の湖や東北、北海道の湖は美しくて人気のある湖が多いわけです。ちなみに田沢湖は日本で一番深い湖です。
 今の若い人たちの旅の好みは知りませんが、私が青春時代、このような湖に旅行することは憧れでした。歌に「湖がなんたらかたら・・・」というフレーズをいれるとそれだけでロマンを醸し出しました。だから流行った歌に湖を詠みこんだものがたくさんありました。
 
 昨日、図書館でビデオ「男はつらいよ」を借りてきました。フーテンの寅さんです。47作目。昭和44年から平成7年まで48作作られ、日本津々浦々旅をしてます。私は全作をすでに見てますが、思うような旅ができぬようになった今、時々旅情を味わいたくなったら、再度見ています。今回は、湖北の旅を自分が行った時の思い出と重ねながらビデオを鑑賞しました。
 琵琶湖は先の分類の範疇からいうと富栄養湖になります。魚も多いし、夏になれば最近は有害なプランクトンも発生します。しかし、これは琵琶湖の表の方。琵琶湖も北の方、すなわち湖北はちがった湖の姿を見せます。貧栄養湖に近くなり、透明な水色、山々に囲まれた静かな湖面、水深も南と比べグッと深くなります。夏でも物静かな湖水ですが冬は日本海側に近いため雪雲が覆い、うんと侘しき風情となります。
 この湖の最北に岬があり、昔は陸の孤島だったこの岬に抱かれるように小さな部落があります。小さなお社や寺を取り巻いて家々がありますが、中世の村を彷彿とさせるような村です。菅浦という村です。もう20年も昔、中世のたたずまいの残る陸の孤島というのを本で調べてここへ来たことがありました。
 ビデオでも私の行ったまさにその小集落で撮影が行われているのです。何度見ても素晴らしかった旅情をかきたてられます。

湖北の琵琶湖
菅浦の雪景色と湖
 

2010年12月17日金曜日

長崎日記のつづき

 長井長義の「長崎日記」を読んでいるが、長崎には先端の科学技術、医学を学ぶ若者たちが全国から集まっている。長崎は幕末よりずっと以前から西洋の学問を学びたい人々が集まる地であった。ペリー来航以前は医学を専攻するのが主であったが、開国以降は軍事学、操船術、造船、冶金、金属加工、などなど近代科学技術を学ぶものが俄然増えた。また幕府や藩の公費で学ぶものが多いのも幕末の長崎留学の特徴である。
 彼も公費の長崎留学である。この地における学問の費用、滞在の生活費が給付されている。まあ、目的も立場もちょっと違うが、我々もこの間まで職業訓練のためIT技術を三か月学んだ。そして毎月生活給付金として10~12万頂いた。彼も学び技術・スキルを身に着けることを条件に公費をもらうことにおいては我々と似ている。
 彼がいくらぐらい給付されたのか、興味がある。どこかに書いてあるかと日記を読み進んだが、自身については記載されていない。ただ、土佐の藩費留学生の上人(上士か)は月当たり8両プラス3人扶持であると記載されている。彼もこれくらいはもらっていただろうと推測される。当時の物価など考えるとかなり余裕のある、はっきり言えばおぼっちゃまの学生生活が送れる金額である。また実家から携えていった金子、また時々の仕送りもあったとおもわれる。
 
 日記を読むといろいろなものの購入、酒宴、おいしい物を食べたこと、が頻繁に出てくる。読んでいて涎が出そうな美味なものが多い。けっして貧乏学生ではない。
 ちょっとおかしかったのは、友達に誘われて丸山へ行っていることである。丸山はこの時代の遊郭、現代風に言えば売春宿だが当時、そんな下品で不道徳な意味合いはない。究極売春行為はするが、それを抜きにすると今で言ったら、銀座の超高級クラブと社交クラブとが合わさったようのものです。なにせ日本の三大遊郭の江戸吉原、京都島原、長崎丸山と並んで称され、位の高い花魁がいた幕府公認の高級花街ですから。
 彼、友に誘われしぶしぶ行ったことを匂わせるように書いてますが、相方の遊女が、「初」という名で16歳、まあまあの美人、などと書いてますから、まんざらでもなかったんでしょうね。もちろんお話だけで終わるはずありません。やることはきちんとやってチップもはずんだのでは。いい留学生活ですね。

 ここで当時の青年たちに最もインパクトを与えた近代科学技術とはどんなものか、考えてみた。ペリー来航以来衝撃を与えた科学技術は数多くあろうが、私は二つを思い浮かべた。大小二つである。
 大は蒸気船、いや蒸気汽船の軍艦である。ペリーをはじめとして外国の直接の脅威は、蒸気で自在に動き、射程の長く精度の良い大砲を搭載した船として幕末日本に現れた。当時のハイテクの塊である。幕府、藩にこれに対抗しうる軍船、大砲は全くなかった。
 清国のような大国がこの軍艦を中心とした兵力に負けたこともあり、日本人はこのまま手を拱いていれば亡国の憂き目にあうと考えたに違いない。このハイテクな軍艦、兵器も含め、手に入れて、操作法を習得し、できれば製作したいという希望者が長崎に集まった。幕府により海軍伝習所ができたのもここ長崎である。青年達は、海に火輪を浮かべることを夢見たのである。
 では小さいほうはどうか、大に劣らずインパクトを与えたのは写真術である。まるでそっくりそのまま実物を吸い取ったような正確な写真を初めてみた人は仰天したに違いない。この写真術も長崎が中心で長崎在住の上野彦馬により日本人が写真を扱い、撮れるようになった。
 この写真術は純粋な化学薬品、そして化学の知識が必要とされ、極めることはそのまま化学の研究になる。上野彦馬も化学の勉強の末、写真家として大成している。

 幕末、化学という言葉はまだ生まれておらず、舎密(せいみ)と呼ばれていた。ケミカルに漢字を当てたのである。長井の日記を読むと「舎密開宗」という化学の本のことが書かれている。化学的な知識を勉強していたのであろう。彼の本業は医学であるが、日記の中で写真術に並々ならぬ興味を示している。しかし写真家を夢想したわけではあるまい、写真を通してそれと深く結びついた化学に興味があったのであろう。のち、彼は医学者としてよりも化学者として有名になり、エフェドリンを抽出発見するのである。


当時の写真
 
 
 

2010年12月16日木曜日

阿波から長崎へ144年前の旅

さあ読もう
 ワンピさんのコメントで長らく忘れていた長井長義の「長崎日記」をまた読み始めた。2~3ページしか読み進んでいなかった。ずいぶん前でもあるのでもう一度、最初の長崎へ向けての出発第一日目、すなわち1ページから読み始めた。
 本文は明治以前の原文だから、古文になる。ところで、みなさん中高校の時、古文、好きでしたか?大概の人は好きなはずないですよね。あらゆる科目のなかで最も好感度の低いのが古典・古文じゃないでしょうか。私の高校生時代古文が好きな人はほとんどいなかったと記憶しております。そういうわたしも大っ嫌い。今から考えると、教師の教授法がまずかったのではと思います。
 やたらと古典文法を押し付けがましく暗唱させ、古典嫌いを生産してました。「かろ、かつ、い、い、けれ。」だの、係り結びの「こそ、已然形」だの、なんたらかたら、これで古典が好きになる道理がない。大嫌いになって、高校卒業して終わり。のはずが・・・・・・・
 歴史好きが嵩じて通信制大学へ、たっぷり史料の講読をしました。古典が読めなければ話にならない。で、まあ何とか史学科のビリッケツぐらいの読む力はつきました。
 幸いなことに幕末のこの「長崎日記」は古文と言っても明治に近いだけに文体もかなり現代にちかいもので、比較的読みやすいものでした。
長崎へ出発
 陰暦11月25日に徳島城下を出発。この日を今年の太陽暦に当てはめると12月30日、
 初日、進んでいく道の景色はちょうど今頃の冬枯れ。
「ああ、いまの時期に出発したのだ」
 と本からしばし目を離し、葉を落とした木々や刈田の跡を眺める。
 同時期に追体験できるのもうれしいこと。ワンピさんがいまの時期に気づかせてくれたおかげです。
 初日は朝、遅く出たこともあり、また、佐古あたりで知人を訪ねたこともあり、夕刻、現在の吉野川市・川島で泊となる。屋号、油屋何某、また紙屋何某に分宿したとある。機会があれば川島の郷土史家にどの家であるか、聞いてみたい。
 この紀行文で長崎まで23日かかっている。彼は文学者ではないので、韻文、俳句、和歌、詩など紀行の中にないが、科学者だけに観察眼はするどく風物、特産品、地理、など今日読んでもよくわかるよう記載されている。また旅の間、求めたものの費用も書かれてある。これを見ると銀使いの単位であるようだ。匁、分、で勘定している。銀札の記述があるから銀札を使用したのか、あるいは藩をこえて一般的な豆板銀を使ったものか。ちょっとわからない。
 私は若い時全国津々浦々渡り歩いたので、紀行を読めば大体どんなところか想像がつく。特にこの紀行は四国・九州の街道旅だから私は何度も行った経験があり、目に浮かぶ場所も多々ある。道後で彼は温泉に入るが、当時の湯船はどうだっただろうと、大いに想像力をかきたてる。阿蘇・内牧では寒気に苦しめられているが暖かな出で湯の記載はない。私が泊まったときはいい温泉がわき出て有名だったがこの時代は開発されていなかったのだろうか。
 読んでいていろいろ興味は尽きず、想像もめぐらす。今日は20ページほど読み、いよいよ長崎の街に入ったところで、しおりを挟み本日分を終えた。

  

2010年12月15日水曜日

今晩のおかずは

これって鍋物、水炊きの一種かな
 今日は最高気温も10度以下で寒い季節風も吹いて、冷え冷えする一日です。日も短く、4時すぎると季節風の雲が空を覆い、もう薄暗くなっています。こんな日は早く家に帰って暖かくしてくつろぎたいですよね。
 そしてこんな寒い晩には鍋物、水炊きなんかがいいですよね。部屋の中心にある炬燵を兼ねた座卓の上にポータブルなコンロを置き、鍋なんかつつきながら食べてると湯気がモアーと上がり部屋全体が温かくなるし、ふうふう言いながら食べると体も温まります。 
 そこでやまさん、今日は鍋物にすることに決めました。で、何の鍋にしようか?去年、初めて市販のキムチ鍋の汁を買って、豚や野菜の鍋をしましたが、これがおいしかった。からだもぽかぽか。これってトンガラシが入ってるのでしょう。じゃあ、キムチ鍋で決まりか、でもこれはウンと寒い時に取っておきたいな。それでは・・・・・・・・
 おっと、大事なこと忘っせてましたわ。徳島へ行った帰り、向こうで少しつかったから、ええーと、財布には?駅から降りて帰るついでに買うから、有り金で買うしかない。中身は540円。まあ、貧乏垂れのやまさん、こんなもんですわ。
 なにができるじゃろ。結論はほとんど一つ。湯豆腐じゃ。豆腐一丁と白菜四分の一、ネギ、みごと予算内に収まりました。
 湯豆腐というと何かお寺の精進料理のようですが、まあ広い意味では鍋物、水炊きでしょう。ちゃいます?
こどもの頃よく湯豆腐食べたわけがよーわかったわ
 わたし、子供の時からわけあってずっと爺さん婆さんに育てられました。つつましやかな生活でできるだけお金をかけない食事でした。冬、寒い時、温まる鍋物といえば、湯豆腐か、鯨肉のすき焼き風鍋でした。言っておきますが、鯨肉、今は最高級肉ですが昭和30年代は一番安い肉でした。
 だからわたし、大きくなるまで鍋に沸いたお湯に魚介類や肉を入れる水炊きなんて知りませんでした。ばあちゃんが、今日は寒いからと鍋に出汁昆布を敷き、水を入れて練炭火鉢にかけると、湯豆腐以外は考えられませんでした。今から考えると裕福な家はおいしい動物性タンパク質の材料を入れてたんですね。
 なるほど、湯豆腐だとお金はかかりませんわな。野菜なんかは裏の畑で作ってましたから、買うのは豆腐だけ。私、近くの店によく買いにやらされました。10円くらいでした。そしてお金で買わないときもありました。家で少しばかり大豆を作ってました。そしてそれを近所の豆腐屋に持っていくと量に応じてその店の引換券をくれるのです。その券で豆腐を引き換えてもらうこともありました。昔の老人たちですから金を使わない食事だったんです。
 爺ちゃん婆ちゃんは豆腐、野菜のヘルシーな食事だったんでしょうけれども子供の私としたらもうちょっと動物性のものを食べたかったです。
 その豆腐の食事のとき子供の私に婆ちゃんがよく言ってた話を今、思いだしました。
「あのな、私の里の古い爺ちゃんなんかは、豆腐なんか買うの、銭、もったいないいうて、かわなんだぞ。豆腐一丁買う金あったら、豆腐の大きさの土地が買えるっちゅうてな。豆腐、買うんわ贅沢じゃ、いよったぞ。」
昔の人ってどんだけつつましい生活しよったんな。貧乏なやまさんでも真似できん。

イメージです


2010年12月14日火曜日

頃は元禄15年

 
今日12月14日は赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入った日です。元禄15年ですから、西暦1702年です。最近は赤穂浪士の討ち入ったこの日を知らない人が多く、またTVや新聞、ラジオなどでも特別取り上げることも少なくなりました。
 しかし昭和の時代までは毎年この日がくると関連した映画が封切られたり、TV放映があったり、また新聞、ラジオなどでも必ず取り上げられました。14日はクリスマスやお正月と同じように年中行事でした。だから昭和の時代、この日を知らない人はほとんどいませんでした。
 赤穂浪士の話は主君のかたき討ちの話です。だから江戸時代この47士は忠義の鑑とみなされ称揚され続けてきたのです。武士だけでなく庶民には「忠臣蔵」の芝居を通して人気を博し、絶賛されてきたのです。
 実はこの元禄時代、太平の世が続き、貨幣経済は発達し、贅沢奢侈な生活をおくる人も現れ、上方を中心に元禄文化が栄えた時代でした。武士も戦うことが本業でなくなり、行政官としての働きが重視されるようになります。こうなるとむしろ純粋な忠義は廃れる傾向にあります。このような時代に起こったのが赤穂事件でした。忠義がだんだん軽くなる一方だった世の中だったればこそ、いわば純粋な形の忠義の発露とみられる「主君の仇討」を人々は拍手喝采し褒め称えたのでした。
 よくいわれるのが「家、貧しくして孝子出で、国、乱れて忠臣出づ」 
 封建道徳が整い君臣に忠義が行き渡っているときには、まあ逆説的なんですけれども、義士は出ないんですね。
 この元禄という年号、私には親しみを感じさせるものがあります。それは私が高校生時代の頃を昭和元禄と呼んでいたからです。江戸時代は全般を通じて非常に緩やかな経済成長の時代でした。でもこの元禄時代は江戸時代の中でも例外的な高度経済成長の時代なんです。歴史の本なんかでは元禄文化の華やかさばかり目につきますが、それの裏付けとなる経済成長があったわけです。
 江戸初期から始まった大河川の土木水利工事、それに付随した新田開発などで、当時のGNPの指標である米の生産がグングン伸びていきました。そのピークが元禄頃です。倍増に近い伸びだったのではと思われます。またこの少し前ですけれど金銀の鉱山の産出量もピークに達しました。結果、日本史上空前の経済規模になり、それが華やかな元禄文化を生んだのです。
 昭和40、41、42、43年、私が高校生の頃、高度経済成長がピークを迎え(ゆるやかにはまだまだ続くのですが)元禄時代と同じような贅沢、奢侈が一般化し太平な世を人々は謳歌したのです。3Cの家電が庶民に手が届くようになったのもこの時代でした。(3C,すなわちカラーテレビ、クーラー、カー)、物価ももちろん上がりましたが、それを上回る勢いで所得も上がりました。成長著しい私の高校生時代でもあり、戦後日本の青春時代でもありました。その時代をさして当時、昭和元禄。
 それにひきかえ今、平成22年も暮れ方、いったいなんと呼ぼう、時代末期の暗さが漂っている気がしてなりません。マイナス成長、デフレ、失業、他国からの侵略。江戸時代の最後の年号をつけて平成慶応とでも呼ぼうか。でも、慶応ってなんかセレブなネーミングだ。
 過去において、悪い世相を代表するこれといった年号が思いつかないだって明治以前は悪いことが起こったら年号を縁起直しに変えるから、悪を代表する間もなくくるくる年号が変わる。
 もういっそ、一元制やめて一君主の間でも、縁起かついで景気のいい年号にしたらどうだろ。
 金満元年。安楽元年。なんてどう。

江戸時代が終わり元号が明治にかわったときの落書。
うえから読むと明るく治まるだが、したから読むと治まるめい(明)江戸っ子の方言で、治まるまい。

2010年12月13日月曜日

思い出したこと

忘れていた本
 読まなければならない本がたくさんたまっていくばかりである。毎日読む量が少ないためこなせていないのである。そのうち忘れてしまう。
 昨日、ワンピースさんから長井長義の名前がでて、そういえばずいぶん前に読もうと思っていてそのままになっていたのを思い出した。映画化されるというニュースよりずっと前だからもう1年くらいになる。確かまだ数ページしか読めてなかった。
 去年、6月に長崎へ2泊3日の旅行をした。まだ竜馬伝は放映されていないので今年ほどブームは起こっていなかった。市内の史跡巡りをしたが長崎は幕末維新関連のものが多い。今残っている史跡だけでなく当時の長崎の町のいたるところに幕末の青年たちをひきつけるものがたくさんあったに違いない。欧米の先進科学技術、医学はここ長崎で学ばなければならなかった。
 わが郷土の阿波の国からも何人かの青年が長崎遊学を果たしている。旅行から帰って、少し調べた。そのなかから1866年慶応2年に長崎に遊学した長井長義の日記の出版本が手に入ったので、それを読んでその当時の青雲の志に燃える若者についてさまざまなことを知ろうとした。
 資料のなかでは日記類を調べるのが、その歴史上の人物が自ら書き残したものである場合、もっともよい。おおむね事実に即しているし、その人の心の動き、またそのほかの人の人物評もよくわかる。また、今は廃れてしまった風俗、地名、方言、また世相なども知ることができ、まことに史料の価値は高い。また旅の記述があるため当時の旅についてもよくわかる。
 ただし印刷されて活字になっているだけましだが、全部原文である。まあ、平安時代でないから今の言葉に近いが、旧漢字、漢文の教養がある程度要求される。
 そんなわけであまり読み進まなかったが、そのうち他の本かなにかに目移りして、すっかり忘れていた。でも思い出した今、映画化されることでもありまた読み続けようと思っている。    
 わが吉野川市によく似た人が
 この長井長義と同じに思い出したことがもう一つあった。先月の28日「竜馬伝」が最終回を迎える日、わが町にも維新の英傑がいることを聞き、生家を見学に行き、写真を撮っていたのである。まあ一流の志士というにはちょっと憚りがあるが、このひと暗殺されず長生きしたため、維新の功労者として名誉は存分に受けました、従一位、大臣、伯爵・・・等々、
 その名は「芳川顕正」
 以下、私が撮った写真です。説明板はクリックして大きくすれば説明文が見やすくなります。生家は、吉野川市山川町です。

2010年12月12日日曜日

マイペースが必要かな

 人間、早く死ぬ人もいれば長生きの人もいるが、まあ、平均寿命まで生きるとして、最近は80歳以上とみていいでしょう。歴史の長さから比べれば短いのでしょうが、近現代史と人生とを比較するとそうともいえない。
 歴史が新しくなればなるほど歴史の変化は加速度的に大きくなっている。うかうかするとゆっくりした人のあゆみより歴史の方がどんどん先に進みすぎ、人生に追いつかないということもあります。
 先日、「坂本竜馬」がおわり、今日はおなじNHKで「坂の上の雲」の放映がありました。明治国家を作り出す基礎を作った時代。そしてそれを発展させた時代。が背景です。
 でも、考えると明治国家「大日本帝国」が生まれ、1945年に崩壊するまでの期間は78年です。これくらいだと十分生きられてまだおつりがある長さです。おなじ明治元年に誕生した人と国家が同時に成長したとします。急激に近代国家から帝国主義国家となり、そして大戦争、大日本帝国崩壊で終止符、しかし、長生きの人はまだ生きています。人より歴史が先に走りぬいたといえます。ゆっくりしたひとのあゆみより時の流れの方があっという間に過ぎ去り、過去の歴史となっていくのが現代です。
 最近、この時の流れの速さにやまさん、目をまわすようになりました。いままでできるだけ振り落とされないように新しいものは積極的に学習しようとしてきました。パソコンも、知らなければ、と思い60歳で購入、学習しようとしました。なんとかパソコンを自分のものにしたいという願望があったため、過度に神経質になりました。遅々として進まぬのに覚えねばならぬこと、未知のことの気の遠くなるほどの多さ。辟易してしまいました。
 「夕暮れて道遠し」です。
 昨日のブログでは今にも癇癪をおこしぶっ壊しかねないようなことを書きましたが、ちょっと大げさすぎたと反省しております。訓練校も終わり、職も決まらぬ今、毎日、パソコンとどう向き合っていくべきか、まだ定まっていないのです。時間がたっぷりあるものでパソコンにちょっかいを出し過ぎるのかもしれません。距離も間もおいたほうがいいのかもしれません。
 これからは無理なく続けられるようにほどのよい習慣づけができればと思っています。

2010年12月11日土曜日

パソコンにまで苦しめられるのは嫌じゃ

 パソコンを扱っていて思うように操作できなかったり、違う作動を起こしたりして、あげく腕を組み
「うーん、ただの複雑な電気機械とは思えぬ奥深さ。人間の知能の代理をするだけのことはある。」
 などとおだやかに反応できればいいんですが、はじめからパソコンにいじめられっぱなしのやまさん、パソコンに敵愾心をもち、はっきり言って憎んでおります。
 癇癪をおこし叩きつけたくなりますが、こらえております。1000円以内のものだと壊したかもしれません。
 「おのれ、いつか復讐してやるからな、覚えておれよ。」
 と電源をおとし蓋を閉めるときつぶやいております。
 だいたい、こいつ、私が落ち込んだ時、体調不良の時をねらって様々な嫌がらせをしかけてきます。
 昨日からは前に先生にお願いして削除したと思った「java」だの「jusched」なんたらだののインストールを勝手に要求するアイコンがタスクバーでピコピコ。先生がコントロールパネルのjavaをアンインストールしてくれたのにしぶとくゾンビみたいに復活してました。パネルを見ると消したはずのに二つも復活。常駐ソフトの状態に。
 常駐ならおとなしくおってくれたらええのに、タスクバーでピコピコ、アイコンを2つも3つも点滅させ、わたしにわけのわからんクリックを要求する。
 もうわたしぶちきれました。
 インターネットで検索しました。まさかこんなのあるまいとおもっていた「java、jusched.exeをぶっ殺す方法」がヒット。さっそく見ると、
 レジストリに残っていれば復活するので、これをチェック、マイコンピュータのウインドウ7(C)からregedit.exeのレジストリをクリックし、(¥)以下の順にクリックで開いていった。
HKEY_LOCAL_MACHINE¥SOFTWARE¥Microsoft¥
windows¥current¥version¥run
が元凶である。
 ちょっと不安でした。レジストリは勝手に触るべきでないとも思いましたが、ええいままよ。どうせお前とは相性よくないんじゃ。これでもっとおかしくなるなら、きっぱりお前とは縁を切るだけじゃ。ざまあ、みさらせ!などとは言いませんでしたが、さらりと削除実行しました。
 恐ろしい結果が待っているかもしれません。
もうね、わたし、本や辞書、ノート、鉛筆の方がよくなりました。
javaは毎月10日にアップデートですから、来月10日ごろまたゾンビのように復活するかも。
その時までインターネットしよるかしら、わからん。

2010年12月10日金曜日

山茶花と鳥取

  今は四季咲きのバラがあり、冬でもバラの花は入手可能である。現に徳島城公園のバラ園には今、大輪のバラが咲いている。
 しかし昔のバラはそうではなかった。もともとは初夏のものである。江戸時代の蕪村の俳句にバラの花が出てくるといったらみなさん驚くでしょうか。「バラ」という言葉の響きからは西洋のロマンの香りがしますものね。
 でも日本土着のバラがあるのです、そんなのバラでないって?バラと言えば西洋の大輪で八重の真っ赤な花のイメージもってませんか?でも西洋のこのようなバラ、人工的な品種改良で生まれたものでもともとのバラは日本の土着のものと一緒なんです。だから大輪、八重のバラをこの土着のバラの木に接ぎ木もできるのです。
 万葉時代からバラは歌にも詠まれました。もっとも「薔薇」という名前ですけど。難しい画数の多い字です。今はこう書いてバラと読ませますが、「ソウビ」と読みます。バラという字は薔薇の別名イバラのバラという読みから来ていると思われます。これ、やまさんの推理。
 蕪村のバラの句紹介しておきます。
 愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら
 江戸時代の句でなく、啄木あたりの句でないかと思うくらいロマンチックですね。
 
 そうゆうわけでバラは初夏の花。だから品種改良で四季咲きができるまでは、冬のバラはあり得ぬものだったわけです。
 18、19世紀、中国や日本から、山茶花や椿がヨーロッパに渡りましたが、冬の期間、バラが見られないときにバラによく似たこれらの花は「冬のバラ」として珍重されたそうです。ブームが起こり、その中でデュマの「椿姫」の小説が書かれました。
 今の時期、公園、街路、生垣、いたるところで山茶花が見られます。冬のバラと19世紀パリで言われた花です。そう思ってみると確かにバラに似ています。
 私ね、ちょっと疑問があります。この山茶花の読み方です。サザンカと読むのであれば、茶山花、と書かなければいけないんじゃない?茶は、喫茶や茶道の読みでもわかるように「サ」と読みます。山はもちろん〇〇山、で濁ってザンと読みます。だから茶山花、ところが実際は山茶花、なんでだろ。
 よく似た疑問は鳥取にも、トットリなら、取鳥でない?不思議だ。
まあ、当て字に近いんでしょうね。
山茶花

2010年12月9日木曜日

冬景色

 今日は朝方は冷たい時雨、西の方や山ではみぞれか雪ではないのかと思うくらい気温も低かった。
 時雨がやんでも寒い風が吹き、ひえびえする一日でした。
 ここ2~3日は昼間は風もなく日も照り、気持ち良い日が続いていたのに一転、冬。城山公園の銀杏もすっかり葉を落としていました。ここ一両日に落としたのでしょう、吹き飛ばされおちこちに吹きだまった落ち葉もまだ鮮やかな黄色のまま。
 常盤木の緑もなんだか黒っぽくみえいっそう寒々と感じます。その常盤木のなか濃いピンクの花が目につきます。冬の花山茶花です。冬枯れの侘しい公園の灌木にぽつんぽつんと色をつけています。
 図書館へ寄った後、再び城山公園を通り、ハローワークへ行く。今日は訓練生だった人に会い少し話をする。まだ10日しかたっていないのにすごく懐かしい気がする。
 3時前の列車で帰ってきたが、高校生が多く満員状態。もう期末テストの時期なのだろうか。いつもより早い。
 4時すぎにはうちの近くの公園を散歩する。こちらも冬景色でなおかつ日暮れのため一層寒々している。何枚か写真に撮る。

夕方、電線にたくさんの鳥が。目白押しに、だからめじろか?たぶん違います。ハトより少し小さめの渡り鳥。種類は私、詳しくないのでわかりません。
 冬は渡りをする小型の鳥がたくさん群れをなし木々や電線にとまります。
 鶸?もず?アトリ? 
遠く渡りをする鳥でなくても冬になれば、暑い季節の間、山にいた鳥が里に舞い降りてきます。冬はさまざまな鳥が見られるシーズンです。
公園の境界で上を見上げ撮影しました。










葉を完全に落とした木に毬状の暗緑色のものが、
これは寄生木。植物たちが死に、あるいは葉を落とし長らく休眠する時に、陰気にその存在を主張し始めます。
 骸骨のような木にそこだけ息づく黒っぽく丸いヤドリギは不吉な感じがします。
 暗くなりつつある冬空を背景に見上げると不気味です。おとぎ話に出てくる木の精霊の宿るところのような気がしてきます。だからヤドリギって?まさか。
 また、張り巡らされた血管にできた動脈瘤のような形にもみえます。パンクしたら、即、死。こちらのイメージも不吉。
 いずれにしても私は寄生木に対しよいイメージはわきません。
みなさんは?








公園の水際から撮りました。川面は北風で波立っています。水面上点在するのは雁、カモ、どっちか。わたし、鳥はわかりません。
 夕暮れの西空の雲、寒々してはるかむこうの雲なんかきっと雪を含んでいるに違いない。
 橋の上に小さく放物線状に見えるのは遊園地の大観覧車、今日のような日は早めに店じまいしたことでしょう。 

2010年12月7日火曜日

車窓にもたれ思う冬の旅

 今日の病院は検査結果を聞くためだけだったので11時前には終わり、そのまま徳島行の列車乗るため時刻表を調べるとあと十分、自転車で病院より駅へ直行、朝方よりも雨が強くなっているのでフードのカッパを着て急ぎ、駅でぎりぎり滑り込んだ。
 10時52分発、対向の列車待ちのため3分も停車するから急がなくてもよかったのだが、雨も降っているし乗ればホッとする。この時間帯は通勤通学が一段落し、二両編成の列車は客が半分もいずすいている。
 ゆったりした姿勢を取り、手を投げ出すように窓枠にかけ頭を窓にもたせかけ、動き出した窓の景色を眺める。
 暗い曇天、窓には小粒の雨が斜めにかかる。茶色い冬枯れの田圃がつづく。牛島を過ぎると北側は家もまばらではるか北路の讃岐山脈まで広々と見渡せる。しかし今日は山の方まで田や畑が見渡せるのは変わりないが、暗灰色の低い雲が垂れ込め、重重しい陰鬱さがかなたまでつづいている。押さえつけるような低い雲の重なりを見上げると、不分明な境界が思い思いの方向に乱れ、ゆっくり動き、それらは全体として形容しがたい形をとっている。
 この時、ふと、今日のような陰鬱な雨もよいの日、怒涛打ち寄せる磯のすぐそばに掘られた露天風呂に入りたくなった。そこでは露天で半身浸かっているが、砕け散る怒涛のしぶきは体にかかり、潮風はヒューヒューと音をたて吹き抜けていく。いくら悪天候で雨が降ろうが、逆巻く波が砕け、潮風に吹き飛ばされそうなこの温泉に入っている身には関係ない。
 そういえば・・・・・・・60年近くの人生を振り返ると、そんな温泉入ったことあるぞ。と記憶を探り始めた。
 やがて記憶ははっきりとよみがえってきた。もちろん今列車で思い浮かべたイメージとは若干違うが、よく似ていたことを思い出した。昭和62年、夏だったぞ。南紀勝浦、今一つは、えぇーと、平成5年、これも夏、ところは青森の辺境、不老不死温泉。
南紀勝浦
ああ、行きたいな。
老後、金があるってすごく幸せだと思う。暇はたっぷりあるから、冬の旅でも夏の旅でも楽しめる。
  でも、やまさん、やせ我慢かもしれないけど、列車の窓にもたれ思う冬の旅だけで満足。
  若い時、放浪で全国津々浦めぐりましたから、思い出の旅はいつでも出発できますもの。
  
 写真2枚は私が撮ったものではない。
不老不死温泉

 冬の旅というと雪見、あるいはウインタースポーツというのもあるけど、やまさんはちべたいの好きでないから、温泉巡りがいいな。
 もう一つ冬の温泉のイメージを紹介しましょう。こちらは平成3年の冬(いや3月だからもう春かな)だと思います。場所は阿蘇の外輪山の北側、黒川温泉、やはり露天風呂なのです。
 こちらは露天と言っても名だたる温泉旅館、中庭の塀で囲ってある日本的風情のある温泉(温泉だけ500円で入れる)。
 塀の囲いのせいか、入ったとき湯気がもうもうとしてよく見えなかったが、湯船につかっていると、ポタリ、そして、またポタリ、椿の真っ赤な花が湯の上に落ち、漂っている。見上げるとドームのような椿の木々が。花をつけているが花ごと落ちてくる。
 もう20年になりますが、今でも思い出します。


 


2010年12月6日月曜日

ムービーメーカーで少し動画を編集しました

 日曜日に動画を携帯で4つ撮りました。そのうち2本をムービーメーカーを使い編集しようと思いましたが、思うようにできませんでした。
1、近くの公民館で開かれた子供向けのお祭り
  タイトルを入れる以外編集してません。おいおい他の機能も使えればと思ってます。




2、草創期の映画のイメージ
  1895年フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフを発明して映写したのが始まりと言われています。はじめての映画は列車が近づいてくるという単純な、ごく短いものでした。
 動画など見たことのない観客は、大きなスクリーン上をこちらに向かってくる列車を見て仰天して我先に観客席から逃げたそうです。
 その草創期の映画をイメージして作りました。白黒にしたのはいいのですが、訓練校の時は古いフィルムの効果があって、雨降り画面やシミなども入って雰囲気が出たのですが、それ、見つかりませんでした。



2010年12月5日日曜日

さらぬ別れ 去年の12月5日

今日の午後四時前、影は自転車に乗るわたしである。日は西の山の端に沈みかけており、影が長く尾を引いている。
 私は気象歳時記にはかなり敏感である。じゃあ12月5日は?写真からもわかるようにこの日の前後、もっとも日の入りがこの地方では早い。一年で夜の訪れがもっとも早いのがこの日と言っていいだろう。
 去年も携帯写真でこの日夕日で長く影を落とす自分を撮影している。歳時記にあまり敏感でない人は夜の訪れがもっとも早いのは22日の冬至と思っている人が多いが、そうではなくて日の入りのもっとも早いのは今日前後である。
 三時台を過ぎると早くも夕づく日の光は見る間に弱まり、四時近くなるとまことにかそけき光となり影をはるかかなたまで投げかけるようになる。気温もグッと下がり侘しき風情となっていく。
 私はこの日、もう一つ切なさで胸いっぱいになることがある。去年の同じ12月5日、私の親父が最後に私のもとを訪れたのである。
 普段は三人の孫に囲まれて県外で娘夫婦と楽しく暮らしているが、時々、独り身の私のところへ来る。くれば大体2~ 3日、時として一週間いる。顔を突き合わせればよく小言を言われた。男の子供は私一人なのにいつまでもしっかりしない私に、言わざるを得ないのだろう。私もそのことはよくわかっているが、親子の気安さでずけずけ言いあい、険悪になる時もある。でも、親父もわかってたみたいで、仲良く別れられるように思ってなのか来て2日ぐらいすると
「わし、明日、帰るわ。」という。
 去年の夏を過ぎたあたりから、毎月のように急にふらりとやってくるようになった。そして一日で帰っていく。そして口やかましくも言わぬようになった。ただ「おまえ、これから、どうするんだ。」と頼りない私を心配する口癖はかわらない。とみに痩せて行っているのが気になり、親父死期が近いの知らせに来たのだろうか、まさかな。親しい友と冗談で話したことを思い出す。10月、11月もそのようにふらりと来てすぐ帰った。
 そして、忘れもしない12月5日、早朝、今から行くわ。と急の連絡、ポンコツ軽四で駅へ迎えにいった。いつものハイカラな格好は変わらず、皮のカーボーイハット、黄色のサングラス、ウエスタンスタイル。80代の爺さんの格好ではない。再会するたびに苦笑する。
 聞くと明日帰るという。別に用事はないという。わたしもいよいよ親父の身に対し不安が巻き起こってくるが、口にはしなかった。
 夜に入り北路の温泉に夕食も兼ねポンコツ車で出かける。一緒に浴場に入ったが裸の親父の体を見て、涙がこぼれそうになった。驚くほどやせている。中年過ぎても筋肉質だった面影もない。このときのわたしの心の中は今から考えると「ああ、おやじ、わたしに別れを言いに来たんだな。」と思ったに違いないと思うのだが、その時はまさか、不吉な、と否定、抑圧したのだろう、意識には努めてのせなかった。
 かえり、遅くまで開いているスーパーに朝食を買いに寄った。店の前に冬物の厚手のパジャマが吊られているのを見て「おまえ、寝るとき、寒いやろ」と私のために買ってくれた。

 その親父も四か月後、葉桜の頃、半月に満たぬ入院で逝った。
 亡くしてわかる親のありがたみ。というけれどまさにそのとおりである。自分のことを心底心配してくれるのが親である。さんざん苦労や厄介をかけても見返り一つなく尽くしてくれたのが親である。
 せめて万分の一でも恩返し、と思うだけで不幸の数々、それでも恨みに思うどころか、80歳越えても子の心配。
 せめてあと2,3年生きてくれればと私が言えば、神や仏の罰が当たろうというもの、これ以上いつまで情けない息子に気苦労させられるのかと死んだ親に叱られる。
 私に子でもいれば、また、子の為に私が苦労することで親の恩に報いることもあるが、それもない。もうすこし、もうすこし、生きて、少しでも喜ぶことをしてあげたかったと正直思っています。しかし、千遍いっても、せんないこと、墓に布団はかけられません。

 親と子は深い絆で結びついています。しかし、やがて寿命からすれば当然親が先に逝くはずです、どうしても避けられない別れ「さらぬ別れ」があります。60歳近いいままで親が元気でいてくれたことだけでも親のありがたさを感じなければなりません。
 さいごに伊勢物語にみる親子の、さらぬ別れ、の歌を紹介します
長らく離れている
老母
老いぬれば さらぬ別れの ありといへば いよいよ見まく ほしき君かな
子(在原業平)
世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もといのる 人の子のため
在原業平はこの返歌をしたためながら母を思ってひどく泣いたそうです。
 息子に「おまえ、寒かろう」と厚手の夜着を買った親父を思い出すとわたしも涙がこぼれます。