2011年8月31日水曜日

田舎の山奥にこんなロマンチックなものが

 西日本で一番水質がよいといわれているのが「穴吹川」、吉野川の合流点より少し入ったあたりはまだ河原も広く、夏休みの最後、水遊びする家族づれがいた。
 そこから川に沿って山の奥の方に入る。「口山」集落のまだ奥、川幅も狭くなり崖がせまってきているあたりにこんなところがあった。
 「恋人峠」、ずいぶんロマンティックな地名である。
 源平の昔、とあるから古くからこの名前がついているのだろう。この伝説によれば「恋人峠」とは言いながら、男女は別れ別れになったとある。

 難所に遮られ女は涙のうちに袖を分かったと書いてある。確かにここは上も下も崖で蜀の桟道のような雰囲気のある道である。今は車も通れるように崖を切り崩し広げてあるが昔は難所だったに違いない。

 しかし難所とはいえ恋しい男が通った道である。ここで諦めて別れたなどとは私にはとても思えない。伝説にもなるような恋に身を焦がす女性である。「八百屋お七」は恋しい男に会うため火付までしてしまう。たとえ崖から落ちようとも恋しい男を慕って行ったと思いたい。

 この崖下の穴吹川の深緑の淵を見ているとまたまた妄想が湧いてくる。

 その1
 慕いながら女はついていくが「蜀の桟道」のような道は、二人が手を引くことも並んで歩くことも許さない険しく狭い道である。後ろから来ていた女は石につまずき
 「あれぇぇぇぇ~」
 という哀しい悲鳴を残し穴吹川の淵に吸い込まれていった。男はなすすべもなかった。一人残された男は悲嘆にくれる。

 その2
 女が落ちる寸前、男は自分の身も顧みず後ろに手をのばし、女の手を取るが、二人とも仲良く崖下の川に飲み込まれる。ほとんど入水心中となる。

 その3
 男は平家の公達、当時のイイ男、都落ちとはいえ慕う女は多いがさすがこんな四国の山奥まで追いかけてくる女はまずいないはずだが・・・・
 最後まで後を慕う女が一人いた。最初はそうでもなかったが、付きまとわれ、鼻につき、やがて顔を見るのも嫌になった。源氏からの逃避行である。足手まといにもなった。
 いろいろに言いくるめて都に返そうとするが、悪女の深情け!絶対別れようとしない。
 そして2人はここまでやってきた。黄昏時、雨も降りだした。
 何を隠そうこの男は女をここまで誘い出したのだ。永遠に手を切るため。
 親切に手を引くふりをして、淵の上まで来たとき、男は女を突飛ばす
 「ひぇぇぇぇ~!」
 ほとんど「怪談累ヶ淵」となる。

 『手を引き急ぐ悪縁の 末は涙の藻塩草、噂の種にとなりにけり』 (心中、道行より)

 最後の3になると怪談話となって「恋人峠」にはふさわしくない。「恋人峠」にふさわしいのは1か2であるが、これも悲劇になる。
 観光で「恋人峠」を売り出すのに悲劇や別れ別れはまずかろうというのでこの近くに地元の観光係りがこんなものを作った。
 2人で来て鍵をかければ結びつくという「おまじないスポット」
 他の地方の観光地でも聞いたことがある。
 でもこれで「恋人峠」に付きまとう不吉さは払しょくできる。

 少し奥には滝があった。
さて、みなさん、恋人峠の伝説であなたは、オリジナル、妄想その1、2、3、あるいはそれ以外、どれをとりますか?
 みなさんに恋人あるいは奥様がいらっしゃる場合、これはなかなか面白い心理分析テストになるやもしれません。公言する時は僕は絶対その2だ!といいましょう。

2011年8月30日火曜日

検査

 ちょっと体調が気になることもあり、病院を受診した。病院も医者も大っ嫌いで出来れば死ぬまでお世話になりたくないと普段から思っている。
 手遅れになるならそれでもいい。ぎりぎりまで楽しく過ごせたらいいと思っているが、いざ、あれこれと不快な症状があらわれると、心配で普通の人以上に辛抱や我慢が出来ないのも、私である。

 で、ここ一週間、不快な症状が去らず、辛抱できず、病院へ行った。
 予想していたが、腫瘍マーカーの値の検査をした。一週間で結果は出る。ここ3年ほど時々この検査をやり結果をプロットしてるが、今までグレーゾーンで推移しており、晴れて心配なし、となったことはない。

 値が上昇に転じたら次の検査(検査入院といってた)となる。
 一週間の検査待ちであるが、こういう状況になるとだいたい悪いほうに考えるもので今日はウンと落ち込んでいる。

 ある程度以上の年齢になれば大病そして死と向き合う覚悟もしておかなければと思う。人間、いつかは必ず死で終わるものであり、例外はない。そのためにも普段からの心構えの準備をしておかなければいけない。
 しかし、そう思いつつも、まだまだ先だ!と内心思っている。だが病は待ってくれず、予告もない。そういう人は急に大病に憑りつかれれば思いっきり戸惑う。むしろ世の中にはそういう人が多いかもしれない。
 いつでも死を受け入れることのできる悟りきった人は少ないのではないか。

 ちょっと名前は忘れたが江戸時代の高名な国学者が「伊勢物語」の最終段は人の生き方を教え諭すのによいので、よくよくこの段を心に刻みつけておくとよい。といったが、なるほどと思う。

 以下、その原文である。そしてこの和歌が業平の辞世となる。

 むかし、をとこ、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、

 『ついにゆく 道とはかねて ききしかど きのふ今日とは 思はざりしを』

 大胆意訳

 え~っ、まあ人間いつかは死ぬもんじゃ、とは思うとったが、まさか自分に、すぐそこに死を迎える日が急に来るものとは思わなんだ。まだ心の準備なんど、できとれへん。なぁ~、死神さん、もっと待ってえなぁ~ 

 容姿、知力、胆力に優れた伊勢物語の主人公にしてこれである。まして私などは・・・・・

2011年8月29日月曜日

山麓文化の道

 三時過ぎ残暑がもっともキツイ頃、自転車で家を出た。
 我が家から1kmほど行けば南山(四国山地)の山裾になるがこの山裾に沿って「山麓文化の道」がある。
 なんだか御大層な名前だが別に全国的に有名な文化遺産があるわけではない。地元の私としては「奈良 山の辺の道」に匹敵するのは無理にしても、地元観光、あるいはちょっとした思索の道としてでも有名になればよいと思う。

 この道に沿ってローカルな神社仏閣、樹齢1000年のくす、湧き水、滝、池、古墳跡などがあるが観光客などはまれである。しかし、休日などはハイキング、サイクリングのコースとして利用されていて賑わっている。

 今日はこの道のごく一部分をサイクリングした。

 山際の古い小さなお寺の前の花壇でこんな美しい花を見つけた。
 ピンクの美しい花である。恥ずかしいことにこの花の名前は知らない。しかし、後でこの花の名前を知る手掛かりはある。

 動物、植物はよく似たものに分類される。いろんな形態上の手掛かりで。たとえば哺乳動物の場合、歯の形態(かたち、数)などで分類されるのはよく知られている。
 植物の場合は花の枚数、オシベの形態、葉の形などであろうが、そんな小難しいことを調べずともこの花、ある植物に非常によく似ているのに気づきませんか?

 まず1枚目の写真、なんかおかしいでしょう?

 「おおおお!茎と花のみで、葉がどこにもにゃぁ~!」

 こんな形の有名な花、知りませんか?

 『♫~、♪~、チャンチャンチャラ~チャ~ランタラ~、チャカチャカ、チャンチャン、あっかい~、はななら、まんじゅぅしゃげ~、オランダ屋敷に鐘がぁ~なぁる~・・・』 

 の歌(長崎物語)で有名な、「曼珠沙華」別名ヒガンバナ。

 そしてよく見ると茎から放射状にいくつかの花がラッパのように出ている。そしてオシベの形。これを見てほぼ確信しました。

 「これはきっと、ヒガンバナ科の品種に違いない」

 この仲間には、他にアマリリス、水仙などがあります。

 帰って、ネットでヒガンバナ科を調べますと一発でわかりました。やはりヒガンバナ科の

 『リコリス』、別名、夏水仙。

 そこから少し入り山裾の最深部に行きました。ここには名水(?地元のみ知る)が湧き出ています。
 今日はここまでで引き返しました。家へ帰ったら4時半になっていました。

 夜8時に気分転換とリラックスのためローマの湯へ行く。
 ここは高、中、低温サウナと3つの部屋がある。名付けて「六道輪廻炎熱地獄サウナ」、「カルダリウム」、「ラコニウム」、私は一番低温のカラカラ浴場をまねた「ラコニウム」にしか体質的に入れない。
 うれしいことに一番人気がなく、いつも私一人で、心行くまで古代ローマの妄想にふける。
 誰もいないので写メールで撮影した。こんなところ
  蒸気でぼやけているが中央に小さな噴水がある。タイルの部屋は8角形である。そういえば法隆寺夢殿が八角形である。聖徳太子が夢想したという話があるが、やまさんは古代ローマ、カラカラ浴場の八角形の部屋で妄想をたくましくする。

 気分よく帰って今日はハイボール180mlをちびちび飲んでいる。

 今日紹介した歌「長崎物語」は、あと半月して曼珠沙華を見たら、必ずやまさんが口ずさむ。少し酩酊しつつ、今、ヨウツベから引っ張った動画を見ながらカラオケしてる。

 演歌、チャンチャカチャンだぞぉ~

2011年8月28日日曜日

昨日のブログと今日の出来事の連関

 ここ何日か体調がよくないので今日は一日ほとんど家にいた。
 
 久しぶりに2階へ上がり、涼しい風を入れようと窓を開けにかかった。雨戸の戸袋を見ると何十匹もの蜂がウジャウジャと戸袋の入り口付近にとまり蠢いている。
 刺されると困るので窓を閉め、殺虫剤を取りに下へ降り、取って返し群がるのをめがけて噴射した。ばらけて散ったが、この殺虫剤、ハエ、蚊用なので、ポタリと落ちるどころかふらつくこともなく、何メートルか離れ、ホバリングしている。
 殺虫剤が蒸散したらまた舞い戻ってくるに違いない。

 「巣でも作っているんだろうか。こんなところに作られると困る。」

 死なないまでも、頻繁に殺虫剤をふりかけ、ここへ集まらないようにして嫌がらせをし、巣作りをあきらめさせる以外にないか、と考えている。

 ホバリングする蜂をにらみつけていると、下の玄関の方に訪う人の声がする。
 うちに訪問者が来るのはめずらしい。でも何の訪問者だろう。時々、汚い家を見てくるのか

 「家のリホームしませんか。」

 などとセールスに来る人がいる。セールスや難しい訪問者はお断りだ。

 降りてみると感じのよさそうな若い青年と中年のおばさんが二人立っている。

 「お休みのところすみませんが・・・・・」

 と慇懃な挨拶から始まった。決して鼻に着いたり、嫌味な感じではなく、つつましやかな感じで、好感が持てる。

 この時点でだいたい何の訪問者か推測はついた。年に1~2回はやってくる人である。

 「あの~、もしかして、Eの神、の方ですか?」

 やはりそうである。もう何十年も前から訪問を受けるが、信仰を強制するようなことはなく、いつも

 「良かったらこれを読んでください」

 と小冊子を置いて帰るだけである。伝道者とは思えぬ引っ込み思案な態度でいつも上品に振る舞っている。信仰心など持っていない私だがこの「Eの神」の人には好感を持っている。しかしこれも遠大な伝道の戦略かもしれない。

 今日は冊子を置いて帰るだけとはちょっと違った。若い男が右手に聖書を持ち、左手でそれをさししめし、(こういう宗教的なジェスチャーって好きだなぁ!)

 「聖書は読んだことおありですか?」

 「ええ、家に持ってますが」

 彼はあるページを開き、静かに読み始めた。新約聖書のヘブライ人の手紙編のようだ。

 そして若い彼は私にこう聞いてきた。

 「あらゆるもの、宇宙も、神が造られたとここにはあります。あなたはどう思われますか?あなたはこれらのものはどうして作られたと思いますか?」

 やまさんの答え

 「そんなことは難しゅうてよおわからんですわ~、ホンマに難しゅうてなぁ~」

 実のとこ一日家で閉じこもり、退屈だったやまさん、この青年とこの「大テーマ」について何時間でも話がしたかったのですが、信仰に入る気持ちもないのにおちょくっているととられても困るのでやめました。

 そういうといつものように小冊子をおいて、静かに引き上げていきました。

 帰ってから我が家の聖書を引っ張り出し彼のヘブライ人の手紙の節を読んでみました。私の聖書は日本語と英語が2つ書かれてあります。彼の引用は以下のような内容でした。

 「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。」

 「For every house is built by someone,but He who built all things is God.」

 昨日のブログで

 「種は神が造りたもうた。と云えれば楽だ。科学的な進化論を唱える方が苦労が多い」

 と書いたら今日、この訪問者のこの言葉のキーワードである。

 「昨日のブログで無神論・進化論の方に心を寄せるようなことを書いた。そして最後に万物の霊長は昆虫だったかも、と書いた。」

 「え、え、え、もしかすると、蜂の来襲と、若い伝道者のもたらした言葉は、神の啓示かもしれない」

 「ゆめ、かみをあなどるなかれ、敬うべし、畏むべし。アーメン」

2011年8月27日土曜日

カンブリア大暴走

 地質時代の本を見ていたら今から5億数千年前の「カンブリア紀」に派手で多様な生物が急にあらわれたとあった。
 「カンブリア爆発」(種の多様性が爆発的に増えたことをいう)と言ってるそうである。ネットの画像で調べるとこんなのがあった。
「アノマロカリス」
三葉虫を獲って食べているところ












 
「オパビニア」
目が5つもあるのがシュール。5つの目を持つ動物などは今はいない。








「ハルキゲニア」
ムカデやゲジゲジの親戚だろうか









「ウィワクシア」
今のどの生物と親戚になるのか予想もつかない。













「ピカイア」
ほとんどナメクジにみえる。2つ突き出ているのは触覚だろうか。








5億年も昔、こんな奇妙な生き物が海にいたんですね。(当時、陸は死の世界だった。)
 こんな多様な種はどうして生まれたのか。

 「神が造りたもうたから。」

 そういえば一番楽だろう。今でも「種」は神が造ったと信じている人はいる。
 しかし、「進化」によって多様な生物種は生まれたという主張を取るなら、大変である。

 単細胞が生まれ、それがどのようにして多細胞となり、また上記のような多様な形態を持つように至ったか説明しなければならない。たいへん骨の折れる仕事である。

 もしかすると個々の「種」を造るときに神の意志が働いたのではなく、進化の過程でわからないように巧妙に「神の手」が働いたのかもしれない。こう考えると「進化論」と「有神論」はうまく調和できる。

 さて上の奇妙な生き物の中に我ら人類の古い古いご先祖様がいらっしゃるのですが、皆さん、どれか指摘できますか。
 多分、ほとんどの人は正確に指摘できると思います。
 われわれは「ある系統の進化の最先端」にいます。そこから考え、我ら人類につながる系統樹から大きく逸脱しない、言葉を代えれば、「特殊化していない」のがご先祖になります。本能的にわかりますよね。体に「節」のあるような特殊化した生き物は御先祖のはずありませんよね。

 というわけで、最後の「ピカイア」がそうです。分類上は「脊索門」に入り脊椎動物、哺乳類はこの仲間です。これとよく似た現生の生き物は「ナメクジウオ」がいます。

 「火の鳥」(手塚治虫)を全巻読まれた方は、これによく似た形のナメクジのようなものが知的生物に進化するという「巻」があったの覚えてますか?
 この知見(ピカイアの進化)はこの漫画よりずっと後で知られたと思うのですが、手塚さんの先見性には驚嘆します。

 さて、やまさんの妄想暴発です。
 5億数千万年前、悪意ある宇宙人がやってきて、この「ピカイア」をピカタ(この肉に小麦粉。溶き卵をつけソテーしたもの)にして全部食べてしまいました。
 そして、今、地球にはびこる万物の霊長は

 「昆虫人間じゃ!」

2011年8月26日金曜日

今日のニュース雑感

 次元の高いものから並べてみました。
天文ニュース 
地球の5倍の大きさのダイヤモンドの星の発見
 ホンの一かけらでも持って帰れたら億万長者じゃと思うが、光で何百万光年などと聞けば現実感はない。
 こういう星に生きている人がいるとすればおそらく我々とはモノに対する価値観が逆転しているような気がする。ダイヤは石のように転がっているが、水などはほとんどないため「水」「氷」などが地球上のダイヤのような価値があるのかもしれない。
 そういえば木星か土星の表面にはメタンの海が広がっているという。巨大タンカー宇宙船で持って帰ることができれば石油枯渇などの心配は無くなる。

 現実感のある話としては「月」ぐらいだと希少元素の採掘の採算は引き合うかもしれない。

小惑星イトカワの組成
 探査機はやぶさが持ち帰って資料によって組成がわかりつつある。分析からなぜかこのイトカワの寿命がわかるそうである。
 それによると一億年たつと完全消滅するそうである。
 同じ一億年でも森羅万象があり命あふれる地球の一億年と、長い部分でも500mしかない死の星の一億年とでは、「一億年」の価値が違う。そもそも同じ質の「時間」なんだろうか。

 古事記に面白い話がある。妻をめとるのに2人の候補があった。一人は「木の花咲くや姫」、命あふれ華やかで美しいが命は有限というか短い。もう一人は「石長姫(いわながひめ)」。名前から推察できようが石のような頑丈で動きのない醜女(しこめ)。とても生き物とは思えぬ鉱物質な女(どんなんじゃ!)、しかしこちらは石のように長持ちし、死ぬことはない。その妻の寿命はそっくりそのまま結婚した夫の寿命ともなる。
 結局、人は「この花咲くや姫」を選ぶ。この話に象徴されるように死んだ石の惑星での一億年より人は地球上での80年を選ぶのではないだろうか。

 「イトカワの一億年は退屈だろうな。」

国際ニュース
 独裁者の末路はどうなるのだろう。リビアのことである。独裁者が権力の座から滑り落ちるときは命も失うことが多い。
 願わくば、今まで元首として君臨し、栄光も手にしたのであるから、最終の美学は貫いてほしいと思う。

 一千年以上続いた東ローマ帝国がオスマントルコの攻撃により幕を閉じようとしたとき、時の皇帝は、皇帝の衣服を捨て(死体で発見されても皇帝とわからぬよう)、剣を取り、一兵士の格好で兵卒に混じり最後の戦いを挑んだ。彼の望み通り、死屍累々の東ローマの兵士の死体からは皇帝を見分けられなかった。
 これが革命や敵国によって滅ぼされる元首であった者の 死に際の美学であると思うのだが、さてかの国の元首は?

金融ニュース
 このニュース、一番理屈がわからない。なんでドルあたり75円の超円高なのにガソリンは値下がりせず(むしろ上昇傾向だぞ)、日本の金融の信用度は下がるのか。
 円安ならその理屈は納得できるが真逆に動いているとしか思えない。
 ある疑いを持ってしまう、「悪代官」と「越後屋」が円高の利益を全部吸い上げているんじゃなかろうかと。
 こんなに円が高いんだったら、今度の新首相にお願いしたい。大蔵省の印刷局でお札をドンドン刷って、トランクに詰め国民の背中にくくりつけて外国へ出してしまおう。とくに年寄りなんかがいいと思う。一億円も刷って持たせてくれればやまさんもう一生外国から戻ってきません。
 「円高も、高齢化率の高さもこれで解消じゃわ。」

芸能ニュース
 エッセイストの麻生千晶さんがまるで私の考えを代弁してくれるかのようなコメントをしてるのでそっくりそのまま引用させてもらいます。

 『そもそもテレビ局は免許事業で、ジャーナリズムの一翼も担う社会の木鐸(ぼくたく)の一つ。番組、出演者とも品位と責任が求められる。中でも司会者は社会人代表であるべきなのに、島田紳助の場合は“突っ込み”と称する「いじり」と「いじめ」を繰り返していた。

 しかし現在のテレビ界は、彼のような下品な発言で人間の卑しい欲望に応える存在に「視聴率が取れるから」と大金を積んできた。しかも“大司会者”として、番組プロデューサーのように出演者やスタッフの選定までしていたと聞く。

 芸能界の大権力者になってしまい、番組で人の顔の造作や体型についてまであれこれ言うなど、全く見苦しかった。しかしテレビ局はたしなめるどころか、ひれ伏してきた。

 そんな彼の手法を真似(まね)する子供も増えたと聞く。それだけ影響力があった訳で今回、いかがわしい人間の黒い交際が分かったのだから、(反面教師として)教育材料にしたらいいのではないか。』

 まったくその通り。しかし日本人は甘いねえ~。同じニュースでテレビ局には彼の復帰を求める電話が殺到してるそうだ。同情するような人ではないと思うのだがどうだろう。

いちばん品位の低い政治ニュース
 菅がいよいよやめて、民主党身内の選挙で首相選び。阿呆げてコメントのしようもないが、首相のかじ取りで国が座礁するかもしれないのでそうも無関心ではいられない。

 でもぞろぞろとたくさん候補がいるがどれがなっても変わらない気がする。また、陰で小沢がからんだ選挙運動で妙なしこりを残し、政治に後遺症をもたらす可能性がある。

 ここは籤で選んだらどうだろう。
 例はある。室町幕府の時代、日本の最高権力者を籤で選んだのだ。足利6代将軍義教である。この籤将軍、いい意味でも悪い意味でもかなり強引な政治をやった人である。

 もう、籤の範囲をずっと広げて広く公募し、首相になりたい人全員でくじ引きをすればどうだろう。今より悪くはなりようがない気がするが・・・・

何回も雨に降られた

 夏ももう終わりなのだろう、最近、曇りや雨の日が多くなった。最高気温も30度を下回る日が増えた。

 日中は外にいて何度も雨にあった。朝から降りそうな曇り空だがいつ降るか定かではない。ちょっと外出するのに降るだろうと折りたたみ傘を持って出たら降らなかった。
 では、すぐそこまでと雨具を用意せず自転車で買い物に出かけたら降られた。かなり意地の悪い天気である。

 午後3時前に徳島へ自転車を取りに行った。JR定期が今日までで、当分徳島へは行かないのでしばらく家へ持って帰ることにしたのだ。
 こういう天気なので当然雨合羽を携えての20キロに及ぶサイクリングである。出発してやはりというか降ってきた。蒸し暑いが合羽を着る。雨はだんだん強くなり途切れそうな気配はない。

 お蔭でと云おうか、いつも徳島と我が家を自転車で行き来する場合は休みながらゆっくり走るため4時間くらいかけるが、今日は休みなしに走ったため2時間もかからず家へ着いた。
 家へ着くころには雨は止んでいたが。汗と染み通った雨水でシャツやGパンはビショビショになっていた。

 思ったほど疲れてはいないと思ったが、軽く食事をし、6時過ぎにゴロンと横になったらそのままスヤスヤ寝てしまい。気が付いたら午前0時前。

 「あっ!いけない!」

 こう思ったのは二つ理由がある。毎日のブログ更新が途絶えること。まあこちらは一回ぐらいパスしてもどうってことはない。でも今日中に返さなければならないDVDがある。こちらの方は明日になれば延滞金が発生する。
 店は一時に閉まるのでさっき自転車で返しに行ってきた。

 「また雨が降ってるとヤダな。」

 と思い外に出た。雨は止んでるようだ。雲は厚く、五月闇のような暗い街を自転車で走る。0時を過ぎ、自動車も走っていない。
 駅の横を通ると最終列車が着いて乗客が出てきていた。時計を見ると0時10分。こんなど田舎の潰れかけの(?)ローカル線にしては最終列車がこんなに遅くにあるとは意外である。
 下車した何人かのシンデレラおじさんはタクシーに乗ったり、停まっていた迎えの車に乗ったりして散って行った。
 広い駅前を横切り終わるころには誰もいなくなった。そうなると駅前は明るいだけにやけにさびしく感じる。

 DVDを返し終わり、今度はブログを打っている。さっきまで寝ていたためか頭がぼんやりしている。だらだらと書きながら、

 「今日は日記風のブログになってるな。」

2011年8月24日水曜日

うれしいなうれしいな、豪華な夕食

 お誘いを受けて、一年に一回あるかないかの豪華な夕食をとりました。
 うれしくなってブログに記念に載せました。冥途へのいい思い出になるかもしれないなあ。

 某ホテルの18階でディナーを食べる。平日で客も少なく、夕方でこの辺りでは一番高所にあるため眉山が正面にみえる。50メートルくらいの高さがあるので空がすぐ横に見え、雰囲気も最高だった。
オードブルは手の込んだものが出てきた。
前に3つ並んでいるのは寿司ではなく蛸のマリネの上にそれぞれフルーツをのせたモノ、盛り上がって春巻きの衣を突き立てたようなのはアボガドと鮪の生身の角切りを和えたようなもの


スープはジャガイモの裏ごしを主としたもので赤い色は赤ピーマンのすりおろし 








魚料理はサーモン、うに、ホタテ貝柱のソティー
とっても柔らかくどれも口に入れるととろけそうでこの皿が今回のでは一番おいしかった








次はフィレ肉と夏野菜の揚げ物
肉は柔らかくソースは味噌風味なのでやまさんのような年寄り向きだ
でも腹いっぱいになり夏野菜の揚げ物はほとんど食べられなかった







デザートはジンジャープリンの上にフルーツポンチをかけたモノ
出てくるまでデザートは腹いっぱいで食べれるかなと思ったが、水っぽいデザートでおいしかったので全部食べられた




動画も撮りました

何様のつもりじゃ!

 やまさん、朝からちょっと怒っている。PCを見ながら、リアルタイムで大きなニュースが起こっていないか携帯ワンセグで7時のNHKニュースを見た。

 トップニュースはわっしの大嫌いな芸能タレント(大物らしい)SSの引退ニュース!
 思わず椅子から転げ落ちそうになったわ。

 「なんでこれが日本の朝の7時のNHKのトップニュースなんだ。」

 「何様か知らないが芸能人の引退ニュースが昨日のすべてのニュースを抑えてトップに持ってくるほどのものか?」

 阿呆げてもう言葉もない。すぐにワンセグを切った。

 世界の他の国のTVのトップはリビアで半世紀近くにわたる独裁者の最後がどうなるか?ではないのか。
 日本の浮世離れしたTV局にも

 「何様のつもりじゃ!」

 といいたい。ホントに「電波は公共財である」という自覚があるのだろうか。
 今日の朝のワイドショーはこれ一色だろうと予想がつく。

 「ああ、地デジ受信設定せんでよかった。」

 こんな内容に電波をつかうのなら地デジ局の一日も早い衰退と消滅を祈るばかりである。

2011年8月22日月曜日

皆さんに晩夏の小旅行のおすすめ

 ゆったりした晩夏の午後、最近とみに柔らかさを増した陽光の元、露天風呂でくつろぐ
 眼下には湖が見える。深山の雰囲気のただようここ湯の里では秋がそこここに忍び寄っている。
 夏に山に行っていた小鳥たちもここではすぐ近くに鳴き声が聞こえる。
 湯上り、少しお腹がすいたら、名物たらいうどんを食べよう。
 時間が許せば湖一周散策もいいかもしれない。

 次は少し走ろう、今度は学のぶどう狩りだ。

 こんな小さな日帰り旅を計画しました。

 費用は全額で1500円。(天然温泉入湯+たらいうどん500円、ぶどう狩り1000円)
 日は指定で8月26日(金)

●出発時間は皆さんの家の距離に応じて午前の適当な時間に。
 乗り物は各自、自転車、自動車、単車など、(徒歩はちょっと物理的に難しい)

●昼前「御所温泉観光ホテル」に着き、サービスディ料金入湯・うどん込500円をフロントで払い入浴あと盥うどんを食べる。

●次は15~20分車で走り学のぶどう狩り案内書に行く。お一人1000円払いブドウ園でぶどう狩りを楽しむ。ニューベリーAが食べ放題とある。

●帰りに時間があれば今月末で終わる吉野川遊園地に入り(入園無料)散策するのもいいかもしれません

 ♨については下をクリック

http://koromonotate.blogspot.com/2011/07/blog-post_26.html

 吉野川遊園地はJR西麻植駅、国道192号線どちらからでも近い。こんなとこです、下クリック

http://koromonotate.blogspot.com/2011/07/blog-post_5290.html

 ブドウ狩りは下のパンフを見てくださいクリックすれば大きくなります。


 どうでしょう晩夏の一日、1500円ぽっきりで温泉を楽しみ、名物うどんに腹鼓を打ち、葡萄を食べ放題に満喫するのは?
 ツアーパックは組みません皆さんそれぞれにどうぞ。温泉、ぶどう狩りの順序もそれぞれに。またどちらか一方のみでもどうぞ。   

2011年8月21日日曜日

目鼻立ち その2 

 現代女性の目鼻の好みはどうなっているのだろうか。美容整形の傾向によって知ることができるのではないだろうか。

 まあだいたい予想はつくと思うが目は瞼の脂肪をとったり、二重瞼にするのが一番多い。逆に一重まぶたにしたり腫れぼったい目を希望する女性などはほとんどいない。
 結果、二重瞼のお目めパッチリ、がもっとも好まれるようだ。

 鼻に関しては一般に高いのが好まれるようであるがむやみやたらと高いのではなく小鼻も整いキュートなのが好まれる。反対に欧米人なんかは鼻を小さく、むしろ低くする人も多いそうだ。
 日本人に関しては低くしたり、団子鼻を好む人はまずいない。

 まあごくごく大雑把にいえば

 「目は二重で大きく、鼻は高く」

 ということか。ということは欧米人とのハーフっぽい顔が好まれそれが一般的な美人となるのだろう。

 昨日、信貴山縁起絵巻を読んだついでに他の絵巻物も見ていた。これらは平安末から鎌倉期にかけてのものである。
 その中の「男衾三郎絵詞」の絵巻を見ていて特異な女性を発見した。お目めパッチリで鼻は高く顔もほっそりのまさに現代風の美女。
 私はそのモダンさに「中世絵巻物のパリジェンヌ」と勝手に名付けた。まあ百聞は一見に如かずで見てください。
びっくりするぐらい高い鼻、印象深い大きな目、袖で隠れてますが顎もかなりシャープなんじゃないでしょうか。そしてこの時代の高貴な女性にしてはめずらしく髪もカールしてます。こういう装束の女性の髪が直毛でないのは他にはまずお目にかかれません。
 これらの特徴からモダンな「中世のパリジェンヌ」と名付けました。

 この時代、絵巻物に描かれる高貴な女性はある定型化がされています。次のように
 いわゆる「引き目鉤鼻」。目は細く一本の線を引いたように。鼻は鍵 < このように。顔もほっそりタイプではなく「しもぶくれ型」。

 いかに定型化されているといっても2つを比べると上の「中世のパリジェンヌ」の方が現代風の好みに近いのではないでしょうか。このパリジェンヌ、なんとなくジャガー横田に似ていて、これどうなんだ!美人か?というご意見もありましょうが、現代風の顔ということで話を進ませてください。

 ではそもそも定型からずれたほとんど例のないこのパリジェンヌの女性、なんでこのように描かれて登場したのでしょう。

 絵巻物は絵物語になっています。この物語は関東の武蔵の国男衾郡の大きな所領をもつ武士の話なのです。
 この武士、質実剛健、武勇の武士の妻に美女はいらないというので、関東一の醜女(しこめ)を嫁にとります。
 つまりこのパリジェンヌ、関東一の醜女・ブスだったのです。

 モダンな現代風の美女?おまけに髪もパーマをかけなくてもカールしてパリジェンヌのようなのにこの女性

 「醜女醜女(しこめしこめ)しき女だったのです。」

 時代が変われば目鼻の好みもずいぶん違うものですね。

 さてこの絵巻物のパリジェンヌの女性写真に続きのおまけ写真をつけておきます。

 このパリジェンヌと武士の間に娘が誕生します下の2枚がそれです。
 まるでメンデルの遺伝学の教科書を見るようで、笑ってしまいました。
 上は小さな娘時代
そして成人した娘、父母は貴族の男性と見合いをさせようとするが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年8月20日土曜日

目鼻立ち

 地上波のTVを見なくなってもう一か月たつが何の不都合もない。ただニュースなどはやはり知りたいためラヂヲを聴いたりネットを見ている。
 ネットのニュースのいいところは自分で知りたいニュースを選び、それについてわりと細かく知ることができることである。興味あるニュースだとクリックしていくとどんどん深化あるいは広がっていく。

 今から振り返ってみるとあの地上波のTVニュースは一方的に垂れ流しで、当然、選択の余地などない。まあ重要度の高い順に公平にお知らせしてくれるから聴いていれば満足度は高い。しかしそれは最初の方だけで、後の方のニュースになると知りたくもない芸能だの料理、旅行などが入ってくる。
 やっぱり地デジのチュウナ買わずによかった。ラヂヲとネットだけでニュースは充分だ。TVもいまは時たま家でDVDの映画を見るのに使うぐらいである。

 さて、今日そのネットを見ていてちょっと興味を引くニュースがあった。分野は国際・芸能ニュースであるからシリアスなニュースではない。見出しは次のようなものである

 「仏俳優ジェラール・ドパルデュー、機内座席で小便 」

 やったことは軽犯罪法に触れるかどうかわからないがかなりの迷惑行為であることは間違いない。
 だが興味を引いたのはそんなやったことではなくニュースにくっついていた彼の写真である。


下の写真の方が最近の写真である。

 「う~ん!見事すぎる鼻じゃ。」

 歳がいった下の方の鼻なんか先が二股になりかけている。

 大きさといい形といい立派としか言いようがない。











何かの本で読んだが人の体の中で「鼻」だけは歳がいっても最後まで成長を続けるそうである。

 もともと大きい西洋人は年老いたらもっとでかくなることか。

 しかし、西洋人に多いとがった鼻だとこの俳優のように立派、見事な鼻にはならないだろう。

 鼻の形の分類に鷲鼻、ローマ鼻、ユダヤ鼻、などあるがこの俳優の鼻はなんというのだろう。
 西洋団子鼻か?

 私が若ければすらっとしたそれこそローマ鼻にでも憧れるが、この歳になるとこの俳優のような押しの強いというか存在感のある鼻にあこがれる。

 ちょっと不気味すぎるって?
 しかし顔の中心にあって大きく目立ち、相手を不気味にさせるほどの存在感のある鼻なんて「男」としては最高だと思うけどな。

 よく下世話にいわれる話は
「鼻は男性自身のシンボルといわれる。」
 まあ、銭湯や温泉に入ったときまじまじと他人様の鼻と男性シンボルを見て調査したことはないので真偽はわからないが、なんか「そうじゃないのか、と信じさせるものが立派な鼻にはあります。」

 日本人にはこんな大きなすごい形の立派な鼻なんかめったにいないだろうと思いますよね。同じ俳優同士、日本の男優にこんな鼻を持つ人いたっけ?
 いませんよね。

 俳優にはいないけど私、どこかで見ましたよ。朝からどこで見たか考えていました。もちろん日本人ですよ。そして夕ご飯を食べてくつろいでいたら、おお、やっと思い出しました。
 中世の絵巻物の僧侶だったのです。本の乱雑な山からそれを見つけだし写メールに撮りました。
 絵巻物は「信貴山縁起絵巻」飛び倉の巻です。この上の絵の左に数珠を持った坊さんと下の絵の子供に手習いか何かをさせている坊さんは同一人物です。
 中世の絵巻物といいながらこの「信貴山縁起絵巻」は写実性の高い絵巻なので実際このような立派な鼻を持った僧侶がいたのでしょう。

 芥川龍之介が「今昔物語」をもとに書いた小説「鼻」にもこのような立派で大きな鼻をもった僧侶が登場します。詳しくは下をクリック
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html

 大きな鼻(ということはでかい男性シンボル?)を持て余したから坊さんになったのかな。まさかね。

 私もどちらかというと鼻は大きい。鼻は死ぬまで成長続けるというんだったら、私も90や100歳まで生きればこんな見事な鼻になるのかもしれない。

 明日は女性の「目鼻立ち」について書きます。

2011年8月19日金曜日

電波が窮屈ってか

 スマートホンに割り当てられた周波数帯(よくわからないがたぶんメートル波かセンチメートル波と思う)の利用が多くなったため、多くの端末が集中する駅、列車などではアクセスし難くなりつつある。今後もインターネット利用の携帯端末は増えること確実なので増々混雑しつながりにくくなることが予測される。
 そのため昨日の新聞報道によればアメリカなどではスマートホンの定額制を見直そうかという話が出ているそうである。それに便乗して日本も検討に入る云々・・とあった。
 私などは今後も無線でインターネットなど使うことはないから、どうぞご勝手に、で済むが利用する人にとっては値上げにつながる大問題である。でも、この従量制の移行、あり得るかもしれない。

 もう今の若い人は知らないが、市内電話は昔は定量制でした。たとえどれだけ長くなろうと10円でした。市内電話に関しては一回つながると無制限使い放題でした。公衆電話などもそうですから勢い長くなり、待ち人で列ができているのに延々話し続け顰蹙を買う光景が見られたものです。イライラから暴力事件も多発しました。
 酢だの蒟蒻だのと埒もない話を延々続けるのは回線が勿体ないと思ったのかどうか、やがて定量制は見直され、3分以降は従量制になりました。

 経済の原則から言えば、使った量に見合う料金を払うのは当たり前のような気がするんですが、ネットの世界はこういう原則はないんでしょうか。
 瞬時に膨大な情報を遠くへ送れるネットであればそうチマチマと量のはかり売りなんかしなくても大丈夫なんでしょうか。

 しかし、これ無線だとどうなんでしょう。媒介に電波を使う場合、周波数帯の特性などから情報の容量が決まってしまいますからある 都市空間で何百万のネット端末を無線でつなぐことは無理なんじゃないでしょうか。

 とまあ、素人は思うわけですよ。でもこれってそう思わされている可能性だってありますよね。なにせ、そのように思わせ、もういっぱいいっぱい、電波も手狭でしょうがない。だから従量制にしましょうね。という方向に導く策略かもしれませんからね。

 結局のところ電波の専門家に聞かなきゃわからんということになるが、今まで我々は電波にどれだけの情報量をのせ、時代とともにその情報量を増やしてきたかを考えると、いくら利用者が増えたからといって無線回線がパンクするとは思えない。

 最初、マルコーニが火花発信機で電波を飛ばした。最初の発信機の電波は火花発信機からのものであったためたった一回線の送発信でもおそらく中波~短波全域をカバーする驚くほど広い周波数帯を必要としたはずです。そして送れる情報はモールス信号だから、効率の悪いことこの上ない。

 次にAM発信機が登場し情報量が増大し、電波帯の利用も狭くなり、多くの回線(放送局)がとれるようになった。身近な四国放送でいえば1269KヘルツだがAM変調の特性でその周波数の上下10Kヘルツぐらいは側帯波を伴うから20Kヘルツの幅で中波帯の情報回線は確保できる。
 500K~1500Kヘルツの間ではだから50の回線(放送局)がとれる。

 以後、超短波帯、極超短波帯。センチ波などに電波利用は広がり、またFM、デジタル、圧縮技術など情報変換技術も進歩した。

 今、UHF帯の電波を利用するとして、一回線利用電波帯の幅は剃刀の刃よりもっと狭いはずだ。そしてその幅の中に一回線どころか多重通信技術、圧縮技術のおかげで数百数千の回線がとれるのではないか。

 いくら無線だからといってそう簡単に回線が混雑してお手上げになるとは思えない。わたくしは専門家ではないがマルコーニから始まった120年にわたる電波の利用の歴史の流れ、情報の容量の時代軸に対する幾何級数的な上昇とそれを可能にした技術革新を見ると電波が窮屈になるなどとは信じられない。
 一般に電波は波長が短くなるほど詰め込む情報量は増大する。しかし、あまり波長が短くなると遮蔽物があると届かなくなったり遠くまで届かなかったりするが、それは地上波であるからである。、例えば波長のごく短い電波を衛星から指向性(半径わずか10mくらいの限定でスポットライトのように浴びせる)を持って地上に注ぐという方法だと無限に近い情報を送ることができると思うのだがどうだろう。

 電波が窮屈になるという話はスマホを従量制にしたいヘル・ゲイトや孫正変(そんせえへん)らのいいわけじゃないのか、と思う。

 ほうじゃわ、わっせとったわ。やまさんとこのアナログのTVをようもようも使えんようにして、

 「ああ、まるで、悪徳の地上げ屋のようにやまさんちの利用テレビをブチめぎ、VHF帯を更地にしたな!」

 あの電波帯どなんなっとんじゃ。悪代官と越後屋がつるんでええようにポッポ内々するんじゃなかろうなぁ~。許せへんぞ~。

 「開いた電波帯、高こう売って、庶民に全額還元しろ。」

 「それからついでにいうとく、TV局の電波利用料もっと大幅値上げしてその分庶民の携帯電波の利用料下げろ。あんなしょうもない番組、電波料金が上がったら全滅じゃわ。」

 最後はぼやきになってもうた!

2011年8月16日火曜日

地獄の釜の蓋の開く日、立待ちの日

 私は明治生まれの祖父母に育てられたため、昔からの言い伝えや諺、今から考えると迷信に過ぎないのではないかと思われるようなことまで、よく聞かされた。

 その中の一つに、「お盆は水遊びしたらいけない。恐ろしい禁忌に触れる。」というのがあった。
 子供の頃は水遊びが好きでよく祖父にせがんで吉野川に連れて行ってもらった。(もちろん祖父の監視の下で)しかし、盆は絶対に水遊び禁止なのである。

 なぜ?と尋ねたら祖父は

 「お盆はな、地獄の釜の蓋が開くんじゃ。そのためあの世とこの世が行き来できるんじゃ。だからな、お盆にうかうかと泳ぎよったらあの世へスルリといってしまうんじゃ。」

 人一倍怖がりの私は地獄とかあの世とか聞いただけで半泣きになったぐらいだから、この話は説得力がありその後も守ってきた。

 大きくなって諺辞典などで調べると、この「地獄の釜の蓋の開く」というのは祖父の言ってたような意味と違うことがわかった。絶え間なく責めさいなむ地獄でさえお盆は鬼も閻魔も休むそうであり、いわば地獄の休日、そのため釜も休業となりふたが開く、のである。
 つまり、「誰かれなく休む」という意味である。

 しかし、昔から、またどの地方でも死んだ人の霊が帰ってくるお盆には泳ぐことは「禁忌」であった。祖父は子供にしっかりとその禁忌を教え込むため、なんか言葉も怖そうな「地獄の釜の蓋が開く云々・・」といったのかもしれない。

 厳密には今日盆の終わり16日が「地獄の釜の蓋の開く」日である。

 今日、自転車に乗って小松海岸海水浴場へ行ったら、海水浴場を閉鎖していて工事の車、人が撤去作業をしていた。

 「やっぱり地獄の釜の開く日には泳がないんだ!」

 監視小屋も壁、床板が取り除かれフレームのみになっている。シャワー室も取り払われていた。
  暑い中ここまで来たが、せっかくだから今日は月見が丘まで自転車で行くことにした。
 というのはここから月見が丘まで「自転車専用道路」があるのである。下の看板に誘われた。
 ところがまあその距離の長かったこと。そして太陽に照らされ炎熱地獄。ぶっ倒れそうになりながら自転車を漕ぐ。
 自転車道は下のような道、これが延々つづく。
 1時間半かかってようやく「月見が丘海浜公園」へ着く。着くと同時に驟雨、ビジターセンターで雨宿り。
 下がビジターセンター
 この公園の中に面白い施設があった。「立待月鑑賞施設」。下がそれ
 この台に立ち、体を後方にもたせかけ月を見る。まさに立待の月ですな。
 実は今日はその立待月の日、旧暦の17日の月なのです。

 近くにあれば午後8時ごろ、行って、この背もたれにもたれ月を鑑賞するのだが残念。

 ちなみに旧暦で昨日の16日は「十六夜」(いざよい)
             今日17日は「立待月」
             明日18日は「居待月」
                19日は「臥待ち月」

 月は一日ごとに出るのが遅くなるから、最初は立って待っていたのが、坐り(居待)、そして寝て待つ(臥待ち)になるんでしょうね。面白い「月の相」の命名ですね。

 私にとって今日はタクラマカン砂漠横断のような真夏のサイクリングでした。顔がほてって微熱が出た時みたいです。足の筋肉、腰、自転車に乗りすぎて痛いです。
 明日、どういうことになっているか恐ろしいです。
      

2011年8月15日月曜日

お盆特別企画 その2 六道輪廻図絵・天道・修羅道編

天道図絵
 この図絵は善根をうまく積んだやまさん爺がめでたく「天道」に転生したイメージ図です。
 池があって蓮が咲いています。蓮の台(うてな)に転生したばかりのやまさんがいます。豆狸3匹も同じ台(うてな)に転生しました。これを「一蓮托生」といいます。
 誤解しないように言っておきますが「天道」は永遠ではありません。気の遠くなるような長さではありますが「天人」にも寿命があります。劫が尽きれば老衰して(これを天人五衰という)滅します。
 滅すればやはり輪廻します。ここで善が足りなければ下の5道に落ちます。天の住人といえども六道輪廻の円環からは逃れられません。


修羅道図絵
 修羅道は争い・戦が絶え間なく続き、弱肉強食、阿鼻叫喚のおどろおどろしい世界です。
 やまさんが武士になって戦っています。海に半分浸かり弓を射るところです。

 中央には永遠に戦い続ける神である「阿修羅」がいます。

 弱い人間は長生きできそうもない世界です。

 われわれの魂は永遠に六道の円環を回り続け、その因果応報の世界から逃れられないのでしょうか、
 「ありがたい教え」(仏教)によるとそれを逃れる方法は、悟り・解脱・涅槃によってこの円環から超越するのだそうです。

 六道輪廻はあの世のことならず、実はこの世にあるという人もいます。人の運命の転変を六道に例えたものでしょう。天道のような幸福から、地獄のような不幸へ、人の一生を六道輪廻のように見ます。
 平家物語の建礼門院は「大原御幸の巻」で自分の一生は六道輪廻を経験したと告白します。

 西洋は輪廻の思想と程遠いように思いますが、運命を円環(車輪)に例え、六道のように回りながら幸・不幸がめぐり来たり、抗えないものという考えがあります。

「全てのものは運命に支配されるもので、運命の女神の持つ車輪の前にはすべて服従しなければならない。」

 このような意味のドイツの中世の詩に歌がついたのがあります。「カルミナ・ブラーナ」です。
 この曲を聴くと「魂の輪廻」あるいは「運命の歯車」の回る音を聴くような気がします。

 去年11月12日のブログでも取り上げましたがもう一度、お聴きください。

わたしは個人的にこの歌を「輪廻の歌」と名付けました。

2011年8月14日日曜日

お盆特別企画 六道輪廻図絵・地獄篇

人の魂は六道を輪廻するといわれている。

天道 
 ↓
人道
 ↓

修羅道
 ↓

畜生道
 ↓

餓鬼道
 ↓

地獄道

その中より地獄道イメージ図。
  地獄に落ちた亡者であっても救いはあります。地獄にも救済の仏がいます。その有難い仏が「地蔵菩薩」です。
 地獄にもかかわらず現れる究極の仏です。
 いや、地獄だけではありません。上記の六道すべてに現れ、救済します。
 「六地蔵信仰」です。

2011年8月13日土曜日

渇望

 餓鬼という恐ろしい異形の亡霊がいます。
やせ細っているが腹は異様に膨れている。
 のどは針のように細く、食物はのどを通らない。
 しかし、いつも極度の空腹で、食べられないのに食欲は旺盛である。 人が食事をしたりしているとワサワサとどこからともなくやってきて、憑りつこうとする。

 これに憑りつかれるといくら食べても満腹にならないといわれている。

 「もっと欲しい。もっと欲しい。」

一説には飢えて死んだ人の魂が成仏できず「餓鬼」になるといわれている。
また、唯一、のどを通るのは人の糞尿だとも。

 餓死し、おまけに成仏できず、こんな形の亡霊になるなんてあんまりだと思います。これも何かの(自分でまいた種?)悪い「業」に引かれた結果なんでしょうか。

 今日、私は餓鬼に憑りつかれたのではないかと思っています。食物ではなく「水を無限に欲しがる餓鬼」に。今日はいくら水を飲んでも満足できず、いくらでも水を体が欲しがります。
 もう体がへとへとになりました。運動したわけでも仕事したわけでもないのにこれです。

 「水渇望の餓鬼」に憑りつかれたとしか思えません。こんな人、今日は多かったんじゃないでしょうか。日照りを呪って死んだ人や砂漠で水を求め死んだ人が「水餓鬼」になって憑りついているのかもしれませんね。

 輪廻では生前の「業」の因果応報によって「いい生」に生まれ変わったり、「悪い生」に生まれ変わったりすると言われています。
 6種類の生があるそうです。いいものから順に天道・人道・修羅道・畜生道・ 餓鬼道・地獄道」
 六道輪廻です。これを見ると餓鬼は地獄の次に恐ろしい生まれ変わりですね。
 円環の六角等分の円周にそれぞれの六道があり、魂はその円環を回る。まさに車輪のような壮大な転生の輪を因果は廻る。なるほど文字通り「輪廻」ですわ。
 
 いくらのどを潤しても決して癒されない「渇望」。今日は餓鬼道に落ちてしまいました。

 「冷たい水、お茶、コーヒ、牛乳、みぞれ、棒状氷菓・・・もうむちゃくちゃでござりまするがな。結果、お腹を壊して死んだら、今度は地獄道ってか?」

阿波踊りのお触書

 阿波踊りなど見たくもないし、ブログに取り上げるのもヤダ。

 でもここ徳島では今日からある意味、狂気の阿波踊り期間4日間です。阿波在住の人のブログをのぞいてみるとやっぱ「踊り」関係をとりあげている。

 「あっしは、意地でも阿波踊りなどブログに取り上げるものか。」

 と思いつつ、昼に新町川の水際公園を歩いているとこのような立て看板が目に入った。

 「こりは!!!???」(@_@;)
 いたく私の興味をそそった。

 「いわゆる特攻服」、ほ~ほ~ほ~。ドイツではナチスの格好をすることはユダヤ殲滅計画への人道上の罪への反省から「法律」で禁止され、罰則もあるようだが、日本でそんな法律はあるまい。
 なんの格好をしようが自由と思うが・・・・「なんで?」

 それにしても「特攻服」を着たっていうが、それ誰なんだろ、終戦記念日が近いし、ボニで御霊がもんて来てるから、あの航空機で体当たり・自爆の「特別攻撃隊」(特攻隊)のパイロットのコスプレだろうか。
 それとも右翼、暴走族、若手のやくざのことだろうか。そうだとすれば「いわゆる特攻服」じゃ、その定義に当たらないんじゃないか。

 「なんだろ、なんだろ、謎である。」

 もっとすごいのは第2項目である。

 「正当な理由なく、い集すること」

 「い集」?調べて、おろろいた!

 「蝟集」、ハリネズミの毛のように、一時に1か所に、多くのものが寄り集まること。


なにやら痛そうな突っ張った針がたくさん集まるんだとか。
ということは、この針を、アンチャンと読み替えれば
 
 触れたら痛そうな突っ張った兄ちゃんが大勢一か所に集まることなんですねぇ~。
 
 
 
 こんな糞難しい言葉を使う意図ってなんですかねぇ~。
 
 あんまりおもしろいから夜も徳島へ行くことにしました。
「特攻服」と「ハリネズミの集団」とはどんなもんか見たくてたまらなくなりました。
 それとこの時代錯誤な立て看板を出した「お上」が出没したその集団に対しどうするのかも見てみたいです。
 
 まるで江戸時代の「お触書」ですわ。
 これこれの格好して立ち入るな。集まるな。
 蜂須賀藩政時代発祥の「阿波踊り」の期間は
 
 藩政時代のお触書も復活したようです。
 
 日が沈むころ徳島へ行きました。超満員の市街でした。「特攻服」と「ハリネズミの集団」はいませんでした。どうも現れるのは午後11時過ぎてからのようです。
 そんなにも待てないので新町川から十三夜月の夜景を写真にとり帰ってきました。
 
 
 昨日の夕方、空を見上げるとこんな雲が。
 まるで木星の表面の縞の上にできた大赤班みたいです。

2011年8月11日木曜日

あっちこっちまわったが結局いつものとこでランチ

 今年の4月にオープンしたという鳴門・北灘の「さかな市」は、おいしいさかなが直売されていて、また新鮮な海鮮料理が食べられるというので茶飲み友達と行ってきました。
 直行するのも能がないので鳴門公園、スカイライン経由で行きました。連れはあまりこのコース乗り気じゃなかったみたいですが、私は2年間鳴門に通い、また渦の道での緊急雇用対策として観光案内で働いたことがあったのでなつかしく、助手席から楽しめました。
 途中の四方見展望所の景色
 さかな市は全く期待はずれでした。なぜか魚は水揚げされてないのかほとんどなく、乾物とか、農産品ばかりでした。
 いろいろな貝類がありました。
 海鮮品を買うこともできず、海鮮料理も10時半だったので食べたいとも思わず、引き返しました。
 途中、田宮のツタヤに寄り時間をつぶし、よく行く
 ベリーズでランチバイキング。
 せっかくのドライブだったけどちょっとお粗末でした。

2011年8月10日水曜日

平静な心、平静な心、と自分に言い聞かせるが、

 また今日も嫌なものを見聞きした。平静な心を持った人ばかりではないかと思われる図書館で。

 私が気づいた時は大声で怒鳴り、興奮してる人が新聞・雑誌閲覧コーナーにいた。その人は私よりずっと年配の人で、その人が真向かいに坐った同じ年配の人に怒っている。
 どうやらスポーツ紙を読んでいた真向かいの人に、「読んだら次に貸してくれ」といった返事が「今読んみょんじゃ!」(徳島弁のニュアンスでは言い方によったらかなり相手に対し否定的拒否的態度になる)というもので、その言い方が気に食わないと、怒っている。

 老人性の怒りの特徴だろうか、言い出してからだんだん一人で興奮して怒っている。対手はほとんど言葉を発しないのに、エスカレートしている。そのうち椅子から立ち上がり、対手に詰め寄り始めた。

 「こりゃ、かなりやばいんじゃないか。」

 思っていたら、図書の係りの人がおもむろに近づいていきました。(もっと早くしろよ!さっきから大声出してるのに!) 若い女性の司書です。小声で

 「すみません、他の方の迷惑になるので大声はお控えください。」

 どうなることか、ハラハラして見ていたのだが、言われると、すぐ静かになり、どこか姿を消した。

 まあ、それで一段落ついたようである。その時私は借りようとしていた本に目を通し、序文を読んでいた。しかし、怒りの大声で、当事者でなくてもとても平静に文字を目で追える状態ではなかった。
 怒り主がどこかへ姿を消し、静かになっても、あんなに怒りの声を聞かせられた私としては続きなど読めなかった。

 とりあえず今手に取っているこの本を借りてさっさとこの場から離れようとした。静かになった新聞・雑誌コーナーをもう一度見てちょっと驚いた。
 なんと怒りの矛先の相手のおじいさん、何事もなかったかのように平静にスポーツ紙を読んでいる。顔も平静そのもの、体が震えていることもない。
 目線はゆっくり紙面の上を動いているから、平静を装って「フリ」をしているわけではない。驚きとともに感心した。
 私などは見聞きしただけでもう平常さはどこかへ行ってしまい。「いやなものを見た。」という暗い気持ちで心がいっぱいになる。

 「いやぁ~。まったく悟りきった爺さんですわ。わたしもこんなになれたらな。」

 怒りにまかせて大声で「恐ろしい脅し文句」や「聞くに堪えぬ罵詈雑言」を発する人。まあ。対手も受けて立つ場合もあるから当事者はいいとしましょう。
 何も関係ないのに聞かされるまわりの者、平静に受け止められない人もいますから、控えて欲しいですね。特にここは図書館でバスや列車じゃないんだから(この場所でもよくないよ)ね。

 実はこの図書館(名誉のため名前はいいません)の新聞・雑誌コーナー、かなり独特の雰囲気が漂ってます。いつも同じ顔ぶれが坐っています。廊下にはなぜか全家財道具とおぼしきものを入れた手押し車がいつも置いてあります。ときどきうたた寝でなく「昏睡」してる人も見ます。

 常連さんが一番好むのはスポーツ紙、地元紙、全国紙の順です。気の弱い私はトラブルを避けるためここではこんな新聞は読まず、いつも誰も読まない「英字新聞」を読んでいます。大意しかわからないけど、おかげでトラブルには巻き込まれず、さらに英語の勉強になります。

 どんな人であれ図書館を利用する権利はあります。そして少し逸脱した利用のしかたも良しとしましょう。でも大声で怒りまくるのは絶対やめてほしいです。

 

2011年8月9日火曜日

夏休み やまさんの絵日記 その2

 今日も暑く、何か涼しい方法はないかと考え、ン十年ぶりに海水浴をすることにしました。

 自転車に乗り小松海岸海水浴場に着き、パパッと服を脱ぎ半パン一丁になって泳ぎ始めました。

 海水浴などもう十年以上したことがない。海水パンツもなかったが、ニットの半ズボンがあるので海パンの代わりにした。
 胴回りは贅肉がタプタプいっている。
 ここは海の家もあるが、1円もお金を使わない主義なので無料の更衣室、シャワー室を使った。
 海にいたのは30分未満、泳いだのは10分くらい。

 「いやぁ~、ホントに気持ちよかった。」
 「海に入るってこんなに楽しいものか。」
 「文字通り、うきうき、しますわ。」

 大きく息を吸ってあおむけになると、海って真水より浮力あるから、プカプカうかぶ。
 真上は青空とギラギラした太陽。浸かった耳からは喧騒は消え、波音と海底の砂の転がる音が聞こえる。

 海に寝転んだ気分だ。この上なく心地よい。

 寝ながら波に漂いたいが、時折、大波がやってきて体をローリング、ピッチングされ、海中にもみこまれる。

 青洟を垂らしてもがきながら上がるのも楽しい。
 なんてったって、足がつくものね。あ~んしん!

 ン十年も海水浴しなかったが、こんなに楽しく、それも金をかけずにできるなんてすばらしい。

 「くせになりそう」

 明日は、ちょっと遠いが自転車で月見が丘まで行こうかな。