2012年2月29日水曜日

2月29日 やまさんの能書き垂れ講座


 今日のググルのロゴを見ると音楽家ロッシーニの誕生日とあった。そうなのか。今日が誕生日だということは、4年に一度しかないから4年で1つしか歳を取らないのかなぁ~、そんなバカなことはあるはずがない。

 さすがネットの威力はすごい!調べるとちゃんと出てる。2月29日生まれは4年に一歳しか歳を取らないなんどということはない。平年は3月1日の午前零時に、閏年は2月29日午前零時に歳が一つ加算されるそうである。これは何とかいう「法律」で決まっているそうで間違いない。
 2月29日生まれもワイらとおんなじに一年に一つ歳を重ねていく。当事者にとっては安心か?ちょっと残念なことか?

 さて今日は私のブログをご覧の皆様に(ってどんだけのモンが見よんじゃ!)「絵解きなぞなぞ」をしてもらいましょう。ではご覧ください。

 おおお~~~!久々のわがジョージ君登場ですが、何やら変わった被り物、妙なセリフを吐いておりますぞ。

 まず被り物、これは皇帝のみが被れる冠です。そしてセリフに出てくる「朕」、これチンと読みます。これも皇帝・天皇のみに許された「一人称」、つまりワイのことですな。

 今日のジョージ君は畏れ多くも皇帝陛下であります。一応、中国の古代皇帝を想定してます。まあ、始皇帝とでも考えてください。

 天気が良いのに家の中に「ひきこもり」であります。外に出ずに一日屋内で過ごします。さてさて皆さん!

 「この図、なんと解きます?」

 ヒントは今日の日のことです。勘の鋭いあなた。もう分ったでしょう。もったいぶらずに明かしておきます。

 「これは閏・うるう、の説明なのです」

 次の図をご覧ください。
 古代中国皇帝は「時」をも支配するとされ、暦の宣布は皇帝の専権事項でした。

 中国は古代から太陰暦で4年に一日の閏日はありませんでしたが、29日と30日の太陰暦の月の組み合わせ上、朔、望、そして日月の蝕、が来るとき、古代の拙劣な計算上、どうしても狂いが生じ、時々、恣意的に余分な日、これは余分だから、暦には入れない一日を置くことがありました。そうして実際の天文現象と合うようにこの一日をくわえることによって調節したと思われます。

 さて、その余分な一日は、時を支配するという皇帝にとっては不吉なものと思われたのでしょう。この日、皇帝は「門」閉ざし、家に引きこもり外へは出ませんでした。
 その説明の文字が上記の図です。
 「門」の中に「王」がいます。家に引きこもりの状態です。こうしてこの余分な一日を過ごしました。
 これがすなわち「閏」(うるう)なのです。

 やまさんの語源学的説明でした。

 皆さん、今年は4年に一度の閏年って知ってますよね。オリンピックの年、アメリカ大統領選挙の年だからみんなよく知ってましたね。
 じゃあ、今年は太陰暦で閏があるかどうか知ってますか?って聞かれればどうです。答えられる人はググググッと少なくなりますね。今年の太陰暦で閏は?

 「あります。いつが?太陰暦は御存じのように閏は一か月余分に入ります。今年は閏月、が3月にあります。つまり3月が2回あるわけです。」

 閏年は定期的に4年に一回入れればだいたい数百年は繰り返されます。じゃあ、太陰暦では閏月は何年に一回入れたらよいのでしょう。これは計算によって19年に7回閏月を入れるとずれが少ないことが分かっていますが、太陽暦と違い規則的にどこに入れるか決まってはいません。かなり複雑な計算が必要です。
 そのため江戸時代の人々は前年の暮れごろまで来年は閏月があるのかどうか、来年の暦が頒布されるまでわからなかったのです。

 今日、29日は閏日です。4年に一回の日ですが「暦の日」として記念日にでもすればどうでしょう。
 絶対的と思われている暦についてあれこれ客観的に考えるのも面白いかもしれません。暦は現在のものが固定的ではないんですよ。太陰暦もマヤ暦もあるいは他も文明圏で違った暦も存在しました。
 皆さんも自分が皇帝となってオリジナルな暦を作って遊ぶのはどうでしょう。
 ・やまさん暦
 ・しんちゃん暦
 ・ジョージ暦
 ・MOTOさん暦
 多様な暦があってもいいと思いますよ。

上桜温泉湯けむり終焉日記

上桜温泉、32年の歴史に幕  

 2月1日から一か月間、無料サービス入浴を続けていた我が町の上桜温泉は今日で無料入浴も終わり、そして本日をもって永久閉鎖、終焉を迎えます。
 出来た時から数えると32年の歳月が過ぎました。開泉したとき地元ということもあって入りに来たのを覚えていますが、32年前ということは私はまだ20代ということになります。

 上桜に行く坂をゆっくりゆっくり上りながら、32年の時間の長さを考えた。平安末の歌謡『梁塵秘抄』の歌の文句が浮かんできます。

 「我は何して 老いぬらん 思えば いとこそ 哀れなれ・・・」

 32年という長さは、偉業を成し遂げる人ならば、生れ落ちてから数えても十分すぎる長さだ。60を越えて何も残さぬ私はこの歌のように・・哀れなれ・・なのか?そう思う一方、何も残さぬことにさばさばしたいさぎよさも感じる。

 32年前といえば、この温泉ができたのは昭和55年だ。私のような20代後半から30代前半の若者があふれ、社会は若い活気に満ちていた。
 公共投資が景気を刺激し、経済を押し上げるというケインズ理論が深い理解もなく信じられ、国・地方公共団体はいわゆる「箱もの」に金を回し、土建業はうるおい、そこからまわりまわって確かに景気も良かった。

 その多くできた「箱もの」の一つとして上桜温泉が誕生した。しかし、今や「箱もの」は老朽化し無用の長物、赤字垂れ流しの厄介者、

 「これって、もしかして、若かった活力あった団塊の世代が今や爺やんになって老朽・長物・厄介者になりつつある相似形か?」

 年寄った団塊の世代は「温泉」が人生の楽しみになりつつあるのに、上桜温泉が閉鎖になるのは皮肉なことである。

 などと愚にもつかぬことを考えているといつの間にやら坂を登りきって温泉についた。何によらず今日で永遠におさらば、というのは無性にさびしい。

 すぐ前に迫る山を見ると、今日の終焉を名残惜しむかのような雪化粧
 フロントで鍵を渡されるのも今日が最後

 浴槽からの眺めも今日が最期だ
 
 今日を限りの上桜温泉、明日から解体・荒廃が始まる。さびしいことです。

2012年2月28日火曜日

猫 この不思議な生き物


 今日は猫の主題でブログを書くので、としちゃんの真似をして猫のイラストを描きました。

 種類は、日本に古来より飼われていて人気の『三毛猫・短尻尾』


 種類で書いたようにこの三毛猫・短尾は昔はごく一般的な猫でした。私が子供時代の昭和30年代はこの種類の猫はどこにでもゴロゴロいました。
 うちの家でも猫好きの祖母が飼うのは三毛と決まっていました。いつの間にか交代した(不思議でいつの間にか消える)3~4代の猫の名前もそのため三毛の愛称『ミ~コ』でした。

 三毛といっても色の三原色のようなド派手な色の組み合わせではなく、白、黒、赤茶のいたってシンプルであっさりしたものでした。
 そして昔の猫の特徴として、長い尻尾の猫も多かったですが、上記の絵のように「短い尻尾」も多く、まるで付け根から2~3センチ行ったところで鋏でチョキンと切ったような尻尾をしていました。

 この短い尻尾の猫はヨーロッパの猫にはほとんどいないみたいで、幕末、日本に来た欧米人が短い尻尾の猫を見て驚いています。

 ところがなぜか今現代、三毛猫も短尾の猫もほとんど見かけなくなりました。ということは日本の猫からこの遺伝子がどんどん消滅していることです。何らかの淘汰が働いたのでしょうか。
 三毛はまず確実といっていいほどメスです。この短尾の三毛は性格がおとなしく人にも良くすり寄って甘えます。性格的にも愛すべき猫だったのです。もし遺伝子が消えるならば残念なことです。だれか原因を知っていれば教えてください。純日本の猫として是非保存運動をしたいですね。

 上に述べたことも『謎』ですが、ともかく猫という生き物は謎めいた生き物です。ふぃいといなくなることはしょっちゅうでどこで何しているやらわかりません。車にはねられでもしない限り死に顔を見せることはありません。
 もしかして自由に『異界』へ出入りできる動物かもしれません。

 犬好きな人は猫は馬鹿だといいますが、私はそうは思いません。一見馬鹿と思われるのは、不羈奔放な性格と同時に、瞬時に忘れる能力に長けているのだろうと思います。これは素晴らしい能力だと思います。

 私も長生きしたおかげで最近この猫の能力が身についてきて喜んでおります。何かしようと隣の部屋に入った途端、何をするのか忘れたり、玄関を出たとたん

 「はて?おいらはなんで外出したんだろう?」

 と思うことがたびたびになりました。これが嵩じれば猫のようにお気楽に外を幸せにフラフラすることでしょう。

 今日、川島駅の近くに行ったので駅長猫を覗きに駅舎へ行きました。外出が多く、5回に1回くらいしかいないのですが今日はいました。私がプラットホームのベンチに坐り呼んでやると

 「ねうねう」

 とないて私の横に寝転びました。今日はどうした風の吹き回しか、すこぶる愛想がいいです。
 そして見たらわかるように
 「可愛がってちょ~~~だい」
 オーラを出しています。

 さっそく愛撫を始めましたが、急にストトンと・・・・・・・・・

 「オワッ!危ないぞ!」

2012年2月27日月曜日

神のものは神にシーザーのものはシーザーに


 今日はまた寒さがぶり返し、朝から低い気温が続いています。日中になっても気温が上がらず、曇天でみぞれ交じりの冷たい風が吹いています。

 今日は寒さと体調不良で外出もほとんどなく家でぼんやり過ごしています。有意義な本を読んだり、勉強すればよいのでしょうが安逸に流れ、ホットカーペットでごろんと横になりDVDなど見ております。

 「これではいけない!」

 と図書館で借りた個性と遺伝に関する面白そうな新書を読み始めましたが、案に相違して駄作!若い時は教養書を読んでいて面白くないのは、自分の理解が足りない、あるいは頭が悪いと思っていましたが、この歳が来ると、傲慢になってか

 「いやしくも教養書であるのに平均的な頭を持った私に理解されないのは、作者が悪い!」

 と思うようになりました。
 それでこの本も放りだし、次はパソコンに向かいました。今、中世を歩く、というシリーズをやってるがその続きを作ろうか・・・

 で、書き始めましたが、題から見てもわかるとおり、逸脱した話になっております。この題の
 『神のものは神にシーザーのものはシーザーに』
 という言葉は宗教的世界と政治的世界とのけじめに関する格言として使われています。大まかにいえばそうなんだけど、人によっていろいろ解釈の違いがあります。

 私はかなり独断的かつ厳格に解釈しております。
 『宗教世界は政治世界と峻別されなければならない。宗教は政治権力を持ってはいけない。」
 と。

 宗教はもちろん人々に幸福をもたらすことを願っているわけです。それは来世のみでなく、現世においても変わりません。
 でも現世での人々の利益を図るならば、手っ取り早いのは政治権力を手にしてしまえば、現世での人々の利益を図ることはたやすくなります。

 しかし、たいていの宗教の祖師はそれを厳しく戒めています。
 「なぜでしょう?」
 『聖』は『俗』と対極に位置することによってそれは存在しています。もっとも俗である政治と結びつくことにより聖が汚され浸食されていくことを恐れたのではないでしょうか。
 政治権力を持てば、富、名誉、社会的地位、思いのままです。聖なる宗教界がその権力を手にすることは腐敗・堕落に他なりません。祖師たちはそれを心配したのでしょう。
 事実、祖師たちの心配した通り、時代とともに教団が大きくなるにつれ、『聖界』といわれるその宗教の担い手たちは権力を手にし、腐敗堕落していきます。

 しかしこの
 『神のものは神にシーザーのものはシーザーに』

 は、私のように厳格に解釈して、宗教と政治とは明確な線引きをすべきだと考える人は少ないようです。皮肉なことに宗教界の人に多いです。

 この格言は政治に直接関与しないことを戒めたものであり、宗教が本来目指す現世・来世の幸福の為、政治に影響力を行使すべきだと考える人や、いや宗教があまねく行き渡る宗教王国をつくるため直接政治権力を手にしてもよい、上記の格言は我が教団にはそぐわない。という人までいます。
 やまさん中世を歩くで、この鎌倉時代、対極的な宗教の祖師が2人登場します。

 一人は私のブログで取り上げた一遍さんです。
 この人は徹底して政治権力と縁遠い人でした。政治権力には近づいておりません。次回のブログで明らかにしますが、一遍さんが遊行を始めた時、日本の国はとんでもない政治的、社会的大騒動が勃発します。
 しかし、一遍さんは飄々としてひじりの遊行を続けています。ひたすら人々個人の魂のみを見据えて。

 そしてもう一人は対照的な僧侶、日蓮上人です。この人は「法華経の精神」を政治の上で実現させるべきであると考え、それはもう、しつこいくらい鎌倉幕府に働きかけております。それが嵩じて結局弾圧されるわけです。

 『神のものは神にシーザーのものはシーザーに』はキリストの言葉を元にしたものですが、もっとも政治権力と遠かった一遍さんもこの格言に極めて近い生涯でした。

2012年2月26日日曜日

やまさん中世を歩く その6 西への門


 大阪の天王寺という地名は6世紀末聖徳太子が建立したといわれている「四天王寺」の寺名からきている。1500年以上経た今日でも同じ場所にあり、人々の尊崇を集めている。
 もっとも今の若い人は、大阪の天王寺という地名からは、天王寺公園や動物園を連想するかもしれない。

 この寺は日本の仏教伝来の原初から存在する寺であるが、中世にあって私が特に注目するのは『西方にあると信じられている極楽浄土の信仰』である。
 今は埋め立てられているが昔、天王寺の寺域は海岸に接していた。その西門をでるとすぐ海岸があって、波が洗い、大阪湾、瀬戸内海が広がっていた。
 極楽浄土は十万億土と呼ばれる無限大数的なはるかに遠い距離といわれていたが・・・・・
 なぜか、このすぐ西の海に接する天王寺の西門は、その極楽浄土の東門であると信じられてきた。っつうことは?これ・・もしかして、

 「おおおお!天王寺の西門は、最短で行ける、浄土へのワームホールじゃ!」

 そのため西門から出たすぐにある海岸付近は西方の海に沈む夕日を拝する聖地で中世は多くの参拝者を集めた。

 それでは一遍さんと一緒にまず四天王寺の境内に降り立ちましょう。

 四天王寺の広い境内である。右に寄っているが五重塔、金堂などが見えている。高校の日本史で勉強する内容であるが、五重塔、金堂などの並びが南北一直線になるのは「四天王寺様式」といって有名である。
 配置から言うと左の赤い門が西門である。人だかりがしている。よく見ると一遍さんが説教をしているか、お札を配っている。

 下はその西門の一遍さんの拡大図である。
 女性の風俗に注意してほしい。何やら頭から覆っている。これは「被衣」(かずき)といわれる。(きぬかずき)、昔、TVで桃太郎侍が放映されていたが、桃太郎侍が登場する時、面を被りこの「被衣」(かずき)姿であった。
 下は中門を入る「被衣」(かずき)姿の女性たちである。

 一枚目の四天王寺全体図の左下、寺の塀の外、に一群の人がいる。その拡大図を下に示す。
 この時代、これらの人々の呼び名をなんというか知らないが、いわゆる「乞食、非人、病者で見捨てられた者」である。参詣の人々の施しなどによって生活の糧を得たものであろうか。
 身障者だろうか、横になっている。家とも呼べない小屋が並んでいる。身を屈め横にならなければ入れない。中には小屋に車がついている。移動式である。キャンピングカーというにはあまりに哀れである。
 この絵巻はきれいごとのみでなくこのような悲惨な人々生活を描いている。

 西の門の西にはもう一つ鳥居がある。仏教の寺に隣接して神社の鳥居とは不思議だが、中世は神仏混淆の時代、寺の境内に明神さんなどの神社も平気で存在する。
 下がその鳥居。
 そしてその外周にはやはり、乞食の住居がある。下がそれである。二つの住居とも車付きの移動小屋である。中では男が横になって何やらしている。
  この西には最初に説明したように西に向いた海岸が広がる。

 この海岸に立ち西方浄土を願い、夕日を拝したのであろう。下は私が作成した中世の人が拝んだ四天王寺西門の海岸からのイメージ図です。

 話は前後しますが、四天王寺参詣を思い立ったのは文永11年、一遍36歳でした。この出発時、故郷の伊予・桜井で異母弟といわれる同じ僧侶で一の弟子である聖戒とわかれます。
 下がその図です。聖戒は一遍より10歳以上年下、目鼻立ちのしっかりした凛々しい美僧であります。
 「おぬしは安珍か?」
 上図の聖戒の拡大図です。

2012年2月25日土曜日

また体調がよくない


 どうもこの間から体調がよくない。ずっと悪いのではなく、天気との連動が見られる。そのため朝から雨の今日などは目覚めから体調不良が続いている。

 でも夜は気分転換になるかと思いいつもの夜のウォーキングに出た。いつもなら歩いているうちに結構元気が出るのだが、今夜は足がだるく、体全体が脱力感に覆われている。

 それでもいつもの同じコース、距離を歩いた。

 いつも私は家を出て東に向って市道2,5kmほど歩いた地点で折り返し、今度は国道を真っ直ぐ西に向かって歩く。午後8時前なので、もう夕日の残照も残っていない。西の空は雲が垂れ込めて暗い。
 国道を西へ向かいながら考えた。

 「西に向かってあるくとはどういうことか?・・・そういえば次回予定している、やまさん中世を歩くは、西が一つのキーワードだな」

 「日の沈む西には何がある?そういえばそんなブログを書いたことがあるな」

 これこれ(クリック) 
 
 西方には「永遠なる幸せの国」があり、西方からの「迎え」を中世人は期待した。

 「そんなところがあり、迎えまで来てくれるんだったら、このまま西方へずんずん進んで行きたいな」

 そんなことをぼんやりと考えながら歩いた。

 今日は体調不良で「やまさん中世を歩く」はアップできませんでした。次回は申したように西がキーワード、「やまさん中世を歩く、西への門」をお送りします。


2012年2月24日金曜日

やまさん中世を歩く その5 修行・勤行・苦行


 前々回のブログで修業・学問をしなくても何かインスピレーションによって宗教的なステージの高い人がいると書いた。でも実のところ私は信用していない。そりゃあ、1000年に一人くらいはそんな宗教の天才が現れるかもしれないがそんな出現到来は稀有でまずないといってよいだろう。

 ところが近代、現代は新興宗教の教祖にそういう人が結構多く現れている。まあ。修業・学問をどれだけしたかは外見ではわかりずらいから、そうだというなら、信用する以外ない。

 「なるほど、信じるところから宗教は生まれるのだ!」

 学問というのはある意味客観的なもので、どれだけ達成したか評価できるものである。別にペーパーテストしなくても話をすればわかってくる。

 これに対して「修業」は漠然としていて、何が何やらわからないところがある。

 「わたしは山にこもり滝に打たれ、3年修業しました。」

 「ほ~ほ~、それは大したもんですなぁ~」

 「で、何を会得しました?」

 と聞いても、酢だの蒟蒻だのと言って煙にまけば、所詮、人の精神修養に類することなど、わかるはずもなく

 「へ~へ~、なるほどね」

 としか言いようがない。これを蒟蒻問答という。(なんちゃって!)

 修業は学問みたいにカリキュラムがあるわけでないから、

 「ワイはこうじゃ!」

 と実践すれば修業となるのである。とまあ、こんな宗教家は少数だろう、大多数はまじめにコツコツタイプの修業をしてるんだろう・・・と思いたいが・・・

 現代より中世の人のほうがずっと真摯な修業を行った。怪しげな独りよがりの修業は現代のほうが蔓延している。中世の人にとってはお手軽・安易な修業は、それは修業ではなかった。

 宗教的なキッチリした行為の日々の繰り返しである『勤行』、退屈だろうが無駄と思われようが、非合理だと思われようが、たゆまず繰り返す「勤行」は、退屈でうんざりで苦しいものであればあるほど修業としての勤行に価値がでてきた。
 『念仏を10万回唱えるだの、数珠を1万回繰る』だの今の人だとアホらしいとおもわれることが勤行であった。
 もちろん掃除、仏に手向ける香華燈明の調達、調整、深夜、早朝の念仏、瞑想、日々課されるものはすべて勤行であった。

 そして最も苦しい『苦行』、といってもやまさん、あまり思いつきません。前にインドに行った人の話では、あちらの「ひじり」さんは、釘のムシロに坐ったり、地面に穴を掘りさかさまになって体の半分を埋めたり、とSMプレイじゃないかと思うようなものもあるようですが、
 日本じゃあ、せいぜい「断食」とか「断崖絶壁を飛ぶように走る」とかお決まりの「滝行」ですかね。

 前置きが長くなりましたが今日は修業道場のようなところにご案内しましょう。

 文永10年とあるから一遍さんは35歳になっていた。一遍さんは故郷伊予の山の方にある岩屋というところに参籠する。堂があってそこにお籠りし、修業・勤行するわけである。
 いまこの地は四国霊場45番札所の岩屋寺となっている。当時の風景を今も彷彿とさせるものがある。
 まずは現代の岩屋寺から。よ~く見ておいてあとの絵巻と似てるか比べてください。
 
 崖に作られたお堂と仙人堂、2つのお堂を結ぶのは危うい梯子のみ。
 つづく2枚は上の堂と下の堂の拡大図。
 下の堂で話しているのが一遍とその弟子聖戒
 上の堂では上半身裸の男がいる何か勤行してるのだろうか。

 ここは修業の道場のようなところであろうか。一遍さんではないが摩天楼のような岩山に登り、行を行っている人がいる。

 まずは全体図から。
 3つの山頂にはそれぞれ赤いお社がある。真ん中の岩山の頂上ではどうやって登ったのか白い浄衣を着た人が額づき祈っている。
 右の高い岩山には下から長い梯子がかけられ、登っている人がいる。はしご上に2人いるがちょっと見えにくいので拡大したのが下の2図

 そして真ん中の岩山の頂上で祈る男。

 このような断崖、絶壁、頂上部での「苦行」は今も細々ながらその伝統が受け継がれ、その「行」をおこなう人がいます。
 わが徳島県では剣山に断崖絶壁の「行」場があります。
 我が故郷の吉野川市でも高越山にやはりちょっとした断崖の「行」場があり、修験道の格好をした行者さんが実践してますよ。

 このようにして錬行を終えた一遍さんですが、これからどこへいくのでしょうか。

つづく

2012年2月23日木曜日

やまさん中世を歩く その4 善光寺参詣


 皆さんは信濃の(今の長野県)の善光寺へは行かれたことがおありでしょうか?この寺の格は高く、確か貫主は「尼宮さま」という門跡のような人がいて、私が初めてお参りした朝、「お数珠頂戴」とかいって数珠で頭を撫でてもらったことを思い出します。この尼宮様、宮様とお呼びしてるから皇族の縁につながる人でしょうか。それを見ても寺は京都の大寺院本山に劣らぬ格の高さが伺えますね。
 
 生涯に一度はお参りしたい寺として大勢の参詣人を集めております。私は何度かお参りしました。一番直近では、平成8年9月3日でした。なぜそんなに正確に覚えているかって?この時の旅は簡単な旅日記を残していましたのでそれを見たわけです。
 それによると車は(マイカーの一人旅だった)上越市(ここは昔越後の国府があったところ)の高田に駐車して、列車で長野に向かいました。往復運賃2700円と書かれてます。天気は快晴。簡単なメモ程度の旅日記だったため車窓の風景などの印象は書かれていませんが、北信濃の美しい山々が見えたことがおぼろげながら思い出されます。

 「そうそうSさまが今年スキーをした高原も見えてたと思いますよ。」

 この時私は45歳、約3か月に及ぶ北海道・北日本からの帰りの旅でした。
 長野駅に降り立ち参道を歩き始めました。

 その時(平成8年)から数えて725年も昔、年号でいうと文永のやはり8年。当時としては私と同じ中年に達していた(33歳)一遍さんも同じ参詣道を歩いていました。
 それでは一緒に歩いていきましょう。

 善光寺の手前に犀川という川が流れている。そこを越さなければ向こう岸にある参詣道へたどり着かないのだが、時は中世、大河に橋などかかってはいない。浅瀬を歩くか、船に乗るか、しかない。
 この川、山国である信濃を流れているため急流が多い。
 あるものはザンブと馬とともに浅瀬を渡っているが、向こうでは半裸になって服、荷物を振り分け天秤棒に担いだ男がどこを渡ろうかとウロウロしている。
  土木技術も未熟で護岸工事などはされていない。せいぜい木杭を打って浸食を防ぐくらいか。

 川を渡り切り参詣する武士。袴に着けているのは行縢といって鹿の皮で作ったもの今でも流鏑馬など同じ格好をしているのを見る。
 右下では牛が角つき合わせてまさに角逐している。
 ところで牛は善光寺と縁が深い。こんな言葉を聞いたことありませんか?

 「牛にひかれて善光寺参り」

 牛はインドでは聖なる動物。この善光寺の本尊は天竺(インド)伝来の仏様といわれている。何か関係あるのだろうか。この絵巻にめずらしい牛の角逐が出てきたのも何か意味があるのかもしれない。

 聖は旅先で喜捨を募り、毎日の糧を得る。宗教活動の見返りというのではないが、それが生活の基本である。喜捨が少ないとひもじい思いもする。
 これは民家で喜捨を乞うところである。一遍さんのようにも見えるがたった一人なので、他の聖かもしれない。この屋の主婦だろうか、相手をしている。多分、好意を受けられたのではないか。何せ、信心深い中世である。旅のひじりにむごいことはできまい。

 いよいよ善光寺につきました。ここで一遍さんが登場しています。一番左、本堂入り口の背の高い聖がそうです。
 
 上図の拡大図です。痩せた丈の高い一遍さんがいますね。中門に入るのはその一行でしょうか。傘を畳んでかついでいますね。傘の裾が折れていますね。これが褄折れ傘でしょうか。その後ろには笈(箱に脚の付いたリュック状のもの)を笠と一緒に背負った髭もじゃの男もいます。ワイルドな顔ですね。ホリも深そう、白人っぽいですね。こういう顔は現代では案外持てます。この時代はどうだったんでしょうか。
 東アジアの民族の中では日本人は非常に髭が濃いといわれています。二重瞼が多く、立体的な顔立ちも多いです。縄文人、アイヌ人の血を引く人が多いんでしょうかね。
 この絵巻、人種的に見てもなかなか面白い見方もできますよ。


 これは善光寺の郊外、芸能音楽史に関係する場面であります。
 西洋中世の放浪のギターリスト、吟遊詩人のカウンターパートともいえるのが下図に登場している「枇杷法師」
 おそらく視覚障害者、杖を持っている。横にいるのは弟子の子どもか?こちらは健常者で師匠の案内役かもしれない。
 この時代、悲劇的一大叙事詩といわれる「平家物語」はもう流布されていたから、この琵琶法師はそれを語り詠ったのかもしれない。
 娯楽やごく狭い地域で暮らす中世人にとってこのような遊芸人は歓迎されたと思われる。

 「中世の音楽、聴くことができればなぁ~」

 春に信濃善光寺を参詣したが秋ごろには故郷、伊予に帰り、窪寺というところで庵室を設け一人修業をする。
 人との交わりを断ち、ひたすら経典を読み、念仏を唱えたとある。
 そして2年・・・・・・・
 詞書きはこう記す

 『すみやかに万物を放下して、身命を法界につくし、衆生を利益(りやく)せんと思いたちたまふ』

 と、いよいよ全国放浪いや遊行の旅か?

 下図はその庵室での一人修業の一遍であるが、めずらしく誰か訪ねてきている。何か一遍さんはさかんに言っている。対手は合掌している。
 柳があり、谷川だろうか水が流れている。
 

 つづく

2012年2月22日水曜日

今日のググルのロゴマークから ジョージ君と勉強するよい子の科学


 今日のググルを開けるといつものロゴマークの代わりに大波小波が動いている。ポップ表示に『H・ヘルツ』生誕155年と出る。

 「H・ヘルツ?誰じゃ、それ、わぃ知らんぞぉ~」

 という方が多いかもしれませんね。クリックするとウィキペジュアに跳び、一応説明はされてますが

 「??????」

 この人の偉業?を永遠に記念するため、名前が電波の周波数に残っているといわれれば、ちょっと親しみが出てくるでしょうか。何ヘルツというふうに周波数の単位で使われています。
 四国放送は1269キロヘルツでお送りしています。というあれですね。

 「そう、この人、電波に関してエポックメーキング的な発見をした人なんです。」

 ところで話し変わりますが、今日のニュース、皆さん見ましたか?とうとう携帯電話の普及が国民一人当たり1台を越えたそうです。特に今、高校生のおに~ちゃん、おね~ちゃんが切っても切れずに、肌身離さずもっているアイテムは携帯電話なのです。
 
 弁当忘れようが、彼氏彼女と別れようが、親が死のうが、日本が沈没しようが、絶対忘れず握って最後まで離さない命と同じ大事なものが携帯電話なのです。

 このモバイル(移動性)のアイテムができるそもそもの大本が今日紹介するヘルツの実験発見にあるのです。どうです、携帯をモモグリまわっている坊ちゃん嬢ちゃん、感心しましたか?

 これだけ携帯電話が普及し、音声のみでなく写真、動画から、最近は携帯でネットもできるのは、空中を飛んでいる各種の「電磁波」を細かく変調、同調し、多量の情報をそれに載せていられるからです。「電磁波」といいますが、皆さんは電波という方がわかりやすいですね。
 この電磁波がなければ携帯もスマホもないことを考えれば、電磁波が空中を飛んでくれるのは有難いですね。

 ところがねぇ、わずか110年ほど前はこの電磁波(通信という手段で)この地球上には飛んでいなかったのです。その電磁波(電波)を使い無線(字義通り線がなくても大海原、空中でも受信できる)通信を実用化したのはマルコーニでした。しかしそのアイデアはマルコーニのオリジナルではなく今日話題のこのヘルツの実験に拠ったものでした。

 そもそも電磁波とはなんでしょうか?今日では光も電磁波の一種とわかっていますが当時はわかりませんでした。電磁波の発見はある浪漫があるのです。
 私は科学史が好きで中高生の時によく科学史の本を読みました。それからいえることは

 「科学の発明・発見は偶然が多い」

 ということです。といってもでたらめで、努力のない探求を言うのではありませんよ。それは偶然ではあっても無数の実験、ひどく退屈するような多くの観察観測から生まれたもので、科学者の努力と汗で発見発明されたものであることは言うまでもありません。

 しかし中には少数ながら、純理論的に予言され、その予言通り発見されたものもあるのです。

 「科学的に予言して、発見される!」

 なんと素晴らしいロマンでしょうか。もちろん、非常にそんな例は少ないのですが、この「電磁波」に関してはまさにそれなのです。
 それだけに昔まだ少年だった私の知的好奇心を刺激し、今でもヘルツの実験は印象深く残っています。

 電磁波は19世紀の中ごろ、マクスウェルによってその美しい簡潔な数式とともに論理的に予言されていました。
 皆さんも中高生の理科の実験で、『電界の変化は磁界を発生させ、また磁界の変化は電界を発生させる』のは知っているでしょう。マクスウェルはそれが次々と鎖状に電・磁界変化を生みつつ、中空を伝播すると導き出したのです。おもしろいことに電界の誘電率と磁界の透磁率のある簡単な比は「光速度」になります。
 マクスウェルは電磁波が光速度で伝播することも予言しました。

 その予言を確かめたのがこのヘルツでした。方法は火花放電によって「電磁波」を発生させ離れたところの装置でそれを受け、確かめたのでした。
 意図的に電磁波を飛ばした最初の人になったわけです。

 実はこのマクスウェルの予言、ヘルツの実験に魅せられて高校の時に私も似たような実験をしたのです。火花は蛍光灯を分解したときに出た誘電コイルを使い、電池をつないで切ったときに一時的に発生する高電圧による火花を使いました。
 受けては簡単なコイルを巻いてレシーバーにつないだものでした。
 結果は?

 少なくとも30メートルくらいは電波が飛びました。友達が電池を切ったり入れたりして火花が飛ぶたび、少し離れた装置のレシーバーからポツポツという音が聴こえました。

 今、こんな手作りの実験をする中高生なんているでしょうかね。古い昔の話になりましたね。

  そして私が高校時代、こんな友人がいました。
 「脳内で電波を直接受信できる」
 ずいぶん便利だなあ。でも、チューニング(電波の選局)はどうしてするんだろうと疑問でした。聞こうと思っているうちに夏休みに入り、夏休みが終わっても学校へは出てきませんでした。風のうわさでは病院へ入っているとか言ってましたが。
 

2012年2月21日火曜日

やまさん中世を歩く その3 遍歴前のこと


 もう先に言ってしまえば、一遍さんは延応元年(西暦1239年)に誕生し、正応2年(西暦1289年)に没するから、数え年51歳の生涯であった。昔は人生五十年といわれていたから、早死にではなく当時の常識から言えば、天寿ともいえる。今の男性の寿命と比べるならば、当時の成人以後の実年齢に20~30年加えたらちょうどよいだろう。

 その一遍さん、庶民の教化に遍歴の遊行を始めるのは30代半ばを過ぎてからである。一遍さんの寿命を考えれば自分の寿命の三分の二を使いきったころにようやく本来的な活動を始めたことになる。これはかなり遅い。
 キリストは30歳をちょっと出たところで十字架上で昇天し、その生前の教えを完結するわけであるが、一遍さんはその年齢に達してもまだ故地にとどまり、修業、あるいは小範囲の教化しかやっていなかった。

 宗教的な(教祖となるような)偉人は、それこそ文字どおりある時、急に「インスピレーション」(霊感)によって啓示を受け、あるいは悟りを啓くことがある。
 その場合、年齢が若いからとか、学問・修業が浅く短いからはほとんど関係がない。極端なことを言えば、霊感を受け、神から啓発されれば少年少女であっても構わない。まあ、このような宗教的な偉人は

 「神に選ばれた。」

 のだろう。

 しかし、中には凡人タイプと云おうか、コツコツと学問や修業の末、努力して悟りを啓く人もいる。当然、すごく月日はかかる。中世にあっては短い寿命との戦いにもなる。よぼよぼに爺さんになって悟りを啓いても、もはや人の教化には乗り出せない。
 一遍さんはこのようなタイプの宗教家であった。そのまじめで長い修業を見てもわかる。当時としては初老といってもいい30代後半から全国遊行を始めるが幸いなことに51歳の天寿まで15年以上ある。(死の瞬間まで遊行は続いた) そして何よりすぐれたことは、非常に健康な体で、かつ健脚であったことである。
 ケケの鬼太郎ではないが、下駄をカラコロいわせ実によく歩いた。

 私が魅力を感じるのは、決して彼は天才肌の人で一足飛びに我らの手の届かない聖域に駆け上がった人ではなく、我らと似た同じ凡人で、努力、修業、そして全国遊行の旅から宗教的なステージを高めていったことである。

 さあそれでは一遍さんと中世の旅を続けましょう。

 九州大宰府で学問修業をしながら11~12年たったころ、四国伊予の父が亡くなり、伊予の国に帰る。
 故郷で何年か僧俗の生活を送る。絵巻ではあまり詳しいことは述べられていない。ただ修業に励んだこと、輪廻について思索したことなどが書かれている。
 下は帰ってきた故郷四国伊予の田園風景。
 お堂があり、傍には五輪塔(墓か)、供養塔が建っている。
 左の山にはさまれた田圃には農作業の仮小屋だろうか、めずらしい形の建造物がある。

 その仮小屋の拡大図。用途はなんだろう?興味がある。物見やぐらに似ているが周りに何もない田んぼの真ん中だからやはり農作業の何かだろう。
 山桜が咲いているから春である。

 故郷で俗に交わる生活を行いながらも『聖』(ひじり)として山野に生き、遊行をすることを決意したと思われる。再度の出家に近い遍歴・修業を思い立ったのであろうか。その決意を胸にもう一度、九州の大宰府の師のもとに面会に行く。

 その間、伊予国では一遍の第一の弟子、生涯の友・同朋となる「聖戒」が出家をする。この聖戒、一遍の異母弟とも従弟とも言われている。

 下図は生涯の伴侶(ホモじゃないですよ、一応いっときますが)となる聖戒の出家。髪をゾリゾリ剃っている。
 赤い水差しが印象的。この時も山桜が咲いている。

 さらに何年かたち文永8年、一遍は33歳になっていた。信濃の善光寺に参詣を思い立ち、いよいよ長途の旅に出立する。
 先頭が一遍。2人目が聖戒であろう。一遍は丈高く、色黒く、顔は細長く、体つきもシャープである。かなり写実的に描かれている。この一遍の姿、よく覚えておいてください。
 海岸を行く一行。小舟があり、上空には雁の群れが渡っている。詞書きは春とあるから、北国へ帰る雁であろうか。

 一行の拡大図です。柄の長い傘、高下駄を履いていますね。何かのシンボル的なものか、純然たる実用からか、はよくわからない。
 この絵で見る限り、一遍はんも、聖戒はんもけっこうな男前ですなぁ。

 
 つづく

最後のセーフティーネット


 朝のニュースでとても他人事とは思えない2件の話を聞いた。

 『親子3人が半年前に電気ガス水道が停められたアパートで餓死』
 『保険料未納で健康保険証が使えず、病院にかからなかったため全国で一年に67人が亡くなった』

 個々のケースにはいろいろ事情もあろう。例えば、生活保護受給の条件に満たない。あるいは何らかの条件で保険料免除にならないケースなど。
 しかし、いかようなことがあろうとも、社会(この場合、国や地方自治体)が忘れてはならないことがある。それは

 「緊急に人の生き死にがかかっている場合、どのような事情があろうともとりあえずその人の死を回避すること、時として強制してでも」

 世の中にはいらぬお世話、おせっかいといわれることもあろうが、上記の場合だけは、どうしてもやらねばならぬ必要最低限の社会の約束、契約といってもいいだろう。

 もしそれが守れぬなら、福祉国家だの憲法25条などは削除した方がいい。

 「めいめい勝手にやれ!」

 と憲法前文で謳えばいい。

 そのような方向に社会をもって行くのでなければ、どうかお願いしたい。

 『社会の最後のセーフティーネットが機能できるように尽くしてほしい。」

 想像力を働かしてほしい。食べたくても食べ物がない餓死、看取るもののない病死がいかに惨めかを。

2012年2月20日月曜日

やまさん中世を歩く その2 学問修業


 鎌倉時代に入ると庶民の為の本格的な仏教が起こる。その一つが「浄土宗」である。開祖は法然上人である。

 平安末には末法の世になると信じられ、来世での極楽往生を願うため阿弥陀如来の信仰が流行する。貴族、豪族などは自分で寺院あるいは阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来を作り、極楽往生のための修業に励んだ。極楽へ救いとられる為の作法も確立され実践も行われた。

 しかし貧しく、その日生きるのが精いっぱいの庶民にとっては、修業や往生の為の作法などが出来ようはずもなかった。それどころか阿弥陀堂、阿弥陀如来像への崇拝もままならないものであった。

 そのような庶民にとって法然の説く、念仏を唱えるだけで阿弥陀如来が極楽へ救いとってくれるという教えは有難いものであった。
 疑いの心無く、ひたすら阿弥陀如来を信じ、念仏を唱えれば救われる。絶対他力の「専修念仏」の『浄土教』の誕生である。
 その論理的根拠は『浄土三部経』にあるといわれているが、ここではそんな難しい話はパスする。
大事なことは、どの宗教でも同じ

 「信じる者は救われる!」

 である。

 さて、お話しは本題の一遍さんに戻る。まだ幼い15歳で出家し、修業の為遠く旅立ったのであるが、行く先は生国・伊予(四国愛媛)から九州・大宰府である。そこの聖達上人に弟子入りする。
 この聖達上人は上記の法然上人の弟子の証空上人の弟子になる。すなわち聖達上人は法然の孫弟子になる。
 当然、一遍の学問・修業はこの「浄土教」に大きく影響を受けたものとなる。聖達上人はやはり

 「もっと、浄土経について勉強しなさい。」

 とさらに大宰府からはわりと近い肥前の国・清水の華台上人の元に送られ一年ばかり学問修業をし、元の大宰府の聖達上人のところへやがて帰って行く。

 絵巻とともに旅してみよう。

 大宰府聖達上人のところに行くが華台上人のところへ送られ上人に面会するところである。
前のブログで述べたが異時同図法によって描かれている。対面している老僧が華台上人であろう。
 
 華台上人は肥前の国・清水にいる。この清水は今も寺があり、私も21年前に行って泊まったことがある。広い寺域を持った眺めの良いところであった。次の図は鎌倉時代のこの地の庶民の家である。
 掘立小屋の小さな庶民の家が並んでいる。江戸時代の庶民の長屋は「九尺二間」(約6畳)と言われているが、これを見ると一戸建てでもそれくらいの大きさである。でも家があるのはいいほうである。家を持たず定住しない人々はこの時代たくさんいた。

 人物を見てみよう。右上の男は鋤をかついでいる野良仕事の帰りだろう。その左下の男、むさくるしい髭もじゃで跪き椀を手にしている。「物乞い」かもしれない。この絵巻では物乞い・乞食、ライ病人などたくさん出てくる。(その人が主役ではないかと思うくらい)
 そしてさらに左下、片肌脱いで薪割をしている。この時代、ガスもなければ灯油ストーブもない、マキ割をしなければ光熱が得られないのである。わずかのエネルギーは自給自足であった。

 「ところであなた!薪割はできますか?」

 一年、肥前で修業したのちまた大宰府聖達上人のところに帰る。次はその図である。従僧が持つのは手紙であろう。一年たってもまだ幼い体つきは変わっていない(一遍は成人すると普通の大人より背が高くなる)
 右には道をゆく3人が描かれている。子供は両手を広げ何か言ってるようだ、この巧みさ、現代の漫画に通じる。

 同じく帰る一遍を別の角度から見た図。
 武士の一団が通る。当時の馬、馬具、武器、武士の風俗がよくわかる図である。季節は春爛漫の2月末か3月初め(もちろん旧暦)、山桜が満開である。

 絵巻を左に繰って行くとこの武士の集団から離れて別の旅人3人が旅をしている。一番後ろの市女(いちめ)笠は女性で杖を手にしている。振り分け天秤棒で荷物をかつぐ男は苦しそうである。この男2人、もしかすると女の従者かもしれない。前の男も蓑の下に重そうなものを負ぶっているようである。


 旅はつづく

やまさん中世を歩く 特別番外編 絵巻物の見方


 日本は世界に冠たる漫画大国です。外国にも漫画はあるけれども私の見るところ日本の漫画とくらべると、行っちゃあ悪いですがお話にならないほど、低レベルであります。というか低レベルに甘んじてます。なぜそうなのか。そもそも漫画にあちらの国は芸術性も文学性も認めないでしょう。風刺、お笑い、低俗な主題のイラストが主です。

 漫画に芸術性や文学性を云々するのはまず日本以外は考えられないでしょう。このように洗練された漫画を日本人が持っているのは、日本人の伝統に培われたアニメ的な絵物語の系譜があるからといえます。

 それは平安末から盛んに作られた「絵巻物」です。以前これについて別のブログで書きましたので、参考にご覧ください。

 ここクリック

 今回の「やまさん中世を歩く」というブログは『一遍上人絵伝』を元にしています。そこで今日は番外編として絵巻物の見方をちょっとお話ししようか思います。

 普通絵画はその一場面のみの静止したものです。絵を動かすためには何枚かの絵を高速でパラパラめくると、あたかも動いたように見えるのはルネサンス期から知られていました。後の映画の原理となるんですけれども。

 しかし、一枚の静止画でありながら特別な技法によって生き生きと動いているように見せる方法もあります。これが現代の漫画技法に発展します。しかしこれには鑑賞者のちょっとした能力が必要です。先の映画のコマのような高速でめくる方法は誰であっても絵が動いたように見えますが、漫画的な技法はある程度の約束事が共通認識されている必要があります。

 赤塚不二夫の漫画では千手観音のようなたくさんの放射状の手を描いて「手の激しい動き」を表現してます。人がジャンプするときは空を切る曲線が描かれます。そのほかにもあるでしょう。

 このような表現は我々日本人からすれば自然で当たり前と思っているでしょうが、全然当たり前ではありません。このような表現をわれら日本人が発明し、共通認識できた上で、我々は生き生きとした漫画を鑑賞しているのです。

 このように一枚の静止画を生き生きと動かす技法を取り入れ、鑑賞できる日本人はすごいと思いませんか。こんな能力は1000年も前の絵巻物によって培われてきたのです。

 さてそれでは絵巻物をどのように見るかお話ししていきましょう。
 絵巻物はその名の通りなが~いなが~い褌のように一連の物語を書き綴った絵で漫画の吹き出しにあたる詞書きをその間にはさんでいます。

 見るときは全部開いてみるのではなく、下図(下手くそな私の描いたイラストですが・・)のように一部分だけを、まあ30センチくらい開けその開いた間隔が30センチに保たれるように右左の巻物を右から左の方へ繰って行くのです。
  このように一部分だけに焦点を当てて巻物を繰りながら見ていくと、次々と左から湧き出すような展開が見られ、見る方にとってはわくわくドキドキの面白い見方ができます。また例えば旅をする場面などでは風景が繰られ動くため、それこそ動画のような面白さがあるわけです。

 また、繰って動かす方法とは別に次のような技法も使われています。元となる「一遍上人絵伝」から次の場面をご覧ください。

 これ、よく似た建物が2つあり、またよく似た子坊んさんが2人いるわけではありません。建物、小坊主は一つ一人なのです。
 左の建物へまず子坊んさんが歩いて行っています。そして右は少し時間が経過した後、建物の縁台に坐り師匠の師の坊さんに対面している図なのです。これを
 『異時同図法』
 といいます。コマ割すればまさに現代の漫画ですね。動的な躍動感あふれる「絵物語」が出来上がってますね。

 他にも絵巻物はいろいろな工夫がされて動的な物語絵を見るようにできていますが、それはまた2回目以降の「やまさん中世を歩く」のブログでおいおい説明していこうと思っています。

 それにしても1000年も昔からのこのような漫画、アニメティックな技法を取り入れて絵巻物を作成したなんて、日本人のこのような描写能力、鑑賞能力はホントに舌を巻きますね。

2012年2月18日土曜日

夜のウォーキングが招いた災厄


 夜のウォーキングで携帯電話を落としたようだ。家に帰って気づいて再び同じコースを歩いた。懐中電灯を下に向けながら探すが暗いのでわからない。そのうち雪が激しく降ってきた。

 結局見つからなかった。雪の中、注意を向けながら2度も歩いたので、へとへとになった。おまけに熱も出てきた。

 携帯を落とし、それを探して風邪までひいた。

 回復するまでブログは休みます。

2012年2月17日金曜日

年寄りな話


 今日、無料の例の温泉に浸かり、出て休憩室で休んでいた。80歳近いおじいちゃんが私に話しかけてきたのでいろいろお話しした。歳の話が出たので、私の実年齢を言うと

 「そうですか、もっとお年が寄られているのかと思いました。」

 「・・・・・・・・・・・・・!!!」

 複雑な心境。何歳くらいに見えますかとは、よう聞かなんだ。この長く伸びた顎の白髭がそう見させるのかなぁ。剃ることも考え始める。

 本屋で立ち読みしていたら新書で
 『大往生したけりゃ、医療とかかわるな』
 という刺激的な題の本があった。そう遠からず死を迎える自分としてはできれば大往生したい。それにしても医療とかかわるなとは?まあ私が日ごろから持っている持論・常識から推測できるが・・・
 と思いながら立ち読みした。

 案の定、やはり私が普段から思っていることが書いてあった。

 「年寄りになれば体はどこか悪くなるもの、無理に病院へ行って『なになに病』と名づけず、あるがままを受け入れ治療もやめよう」

 「癌も自然に放っておけばよい。最期は死ぬが、妙に治療しない方が大往生できる。もちろん延命治療などは無駄、苦しいだけ、自然に放っておけば枯れ木が倒れるように自然に死ぬ。痛みも苦しみも自然の衰弱が一番最小となる。」

 「がんで死ぬのはわるくない。治療や延命すればくるしく痛くなる。」

 ようするに病院・医者にかかり治療などせず、自然に推移して死のう!というわけだ。

 「やっぱりな。ワイの思うとった通りじゃ」

 でもこの本にはこうも書いてある

 「医療にかかわらず死んだら、不審死と思われて、捜査の対象となるかも・・」

 ちくしょお~~~~!医療を拒否して死ぬことも難しいではないか、やっぱ、死期がせまったら人里離れた山奥で小さな庵を結び死のうやぁ~と。

 また寒さやってきた。

 高越山から雪が降りてくるくる。
 
 とうとう徳島駅まで降りてきた。

 「わては、高越おろしどすぇ、あんさんの心を雪にしてしまいますぇ~~」


 今日は雪と寒さで夜のウォーキングに出られないかもしれない。